武田信玄の「ラブレター」(追記)

高村さんという方からコメントがあった(「歴探」の人?)
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武田信玄』(笹本正治ミネルヴァ書房)には「甲役人」の部分が「甲待人」となっているとの指摘。確認すると確かにそう書いてある。原文写真も載っているけれどこれについて俺は全く不得意なので「役」なのか「待」なのかわからない。「甲待人」ならこれが「庚申待の人」であることはほぼ確実で、「庚申待の役人が多いから」よりも「庚申待で人が多いから」の方が自然な解釈が可能になると思う。「役」だとしたら「講(=甲)役人」の可能性も一応はあると思う。


なお『武田信玄と勝頼―文書にみる戦国大名の実像』(鴨川達夫)ではこの部分(「内々法印にて申すべき候えども、甲役(待)人多く候わば、白紙にて、明日重ねてなりとも申すべき候」の部分は全く触れられておらず「追而書は省略してある」と書いている。この文書を天天文15年のものとした根拠と成り得るものはこの「甲役(待)人」の部分しか考えられないが、それは本論とは関係ないので重要でないと考えたのだろうか。


そもそも、この文書がいつどのようにして天文15年のものとされたのかを俺は知らない。乃至氏の本によると『史徴墨宝』に天文11年の文書とされているそうで、その時点ではこの日が庚申だということに気付いてなかったことになる。それに気付いたときに「甲役人」と読まれたのか「甲待人」と読まれたのかが気になる。というのも「甲役人」と読んで、これが庚申待のことだと気付くのは普通に考えれば難しいと思うから(他の文書でも使用されていたので気付いたという可能性はある)。これが本当は「甲待人」と読むのだと気付いたのならば、そこから庚申待のことだと気付くのは容易であろう。


(追記21:00)
史徴墨宝. 史徴墨宝考証 第1編 上・下(近代デジタルライブラリー)
この時点では「甲役人」だったことを確認。



あと「春日」の部分だけれど、「もとの文字をすり消した」といわれる部分は、やはりこの写真を見てもわからない。「春日」の横のあたりに多少滲んでいるところはある。これも素人だからよくわからないんだけれど、書状を折りたたんだときに合わさった側の墨がついたとかいったことがありはしないだろうか?


さて、笹本正治氏は「甲待人」と書いているだけあって、本文でも庚申待について触れている。しかしながらその解釈は通説によっており、そこから脱却することはない。


たとえば、

信玄としてはこの日に弥七郎と関係しないといいわけをすることが重要であって、源助もそれが確約されればよいので、このような書状でも話を済ませることができる。

とあるけれど、これが信玄の浮気問題ならば、この日に弥七郎と関係しなければそれで済むというのはおかしな話だろう。源助がこの日の夜について聞いたから、この日のことだけを答えたという話として解釈しているみたいだけれど、仮に俺の仮説ではなくて通説どおりだとしてもこの日が庚申だから重要なのだと考える方が遙かに筋が通っている(なお、検索して知ったのだが庚申の日は寝るのだけがタブーなのではなく男女和合もタブーだそうだ。当然男同士でも同じだろう)。笹本氏はこの日が庚申だとしながらその視点を欠いている。
JAIRO | 庚申待の思想的源流 : 近世津軽に於ける道教の三尸信仰を中心として


あと笹本氏は全体として信仰を軽くみているのではないかと思う。たとえ信玄が庚申の迷信を気にしていなくても弥七郎が気にするかもしれないし、信玄ほどの地位の人物が(性的な意味であるとなしとに関わらず)寝るのだとしたら、そのことを把握している家臣もいるはずで、その家臣が迷信を信じて気にするかもしれない。その情報が漏れる可能性は大いにあるし、それが信玄が信仰を軽視しているという評判につながり、統治に影響を及ぼすかもしれない。俺も信玄が昼に弥七郎と一緒に(性的な意味ではなく)寝た可能性があるかもしれないと考えているけれど、さすがに夜に寝るのは信玄が迷信を信じていなくてもありえないと思う。