敬意を籠めて実名で呼ぶ



「みなさんご存知・・・」というほどご存知でもないように思うけど…


諱を避ける(2011-11-20)
諱を避ける(その2)
諱を避ける(その3)
これ書いたのが2011年で、その頃は少なくともネット上では「諱を避けるのが常識だ」ということになっていて、というか今でもそうでしょう。


(まあ、面と向かって呼ぶのと、文書に書くのは違うだろうけれど、そこの区別もあまりないようで)


例外として伊達政宗が「政宗」なのは、政宗らしいというような話なんかがあったけれども、そういうのは「呼び捨て」と形容されてるわけで、そう呼ばれる人の人格的なものと関係あるように語られていた。


この問題をネット上で書いたのは俺が最初ではないかと思ってる(言い過ぎかもしれないけど、この記事書いた時に調べるために検索した限りでは、伊達政宗とか毛利輝元とか個別のケースに言及したものは極少数あったけれど、大きな視点で問題にしてるものはなかったと思う)


※ 歴史学者では山田邦明氏の『戦国の活力』に指摘があるとコメント欄で教えてもらった(そういえばまだこの本読んでなかった…)。
諱を避ける(その2)
しかし他の学者が取り上げて議論が盛り上がってるという話も聞かず、丸島和洋氏が言及しはじめてから話題になってきたという感じ。



で、この実名で表記するのが「敬意を籠めて」のものなのかというと、俺はちょっと良くわからない。もちろん悪意を籠めてのものではないと思うし、馴れ馴れしいものだとも思わないけれど、もっと何か特別な理由があるんじゃないかと思ってる。


丸島和洋氏の論考が発表されたらまた考える。


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