「あざい」か「あさい」か
この問題については前に何回か書いたんだけれどツイッターで話題になってたので再考してみる。
外国人史料というのは、当時の発音を知る上で、宝の山です。いま、私が残念だと思っているのは、フロイスが「浅井長政」の名前に触れていない事。もし宣教師史料に「浅井」がでてくれば、あさい/あざい問題は決着がつくのですが。未紹介の書翰や報告書に、眠っているのでしょうか?
— 丸島和洋 (@kazumaru_cf) 2016, 3月 8
従来は「あさい」とされてきたのが、地名の「浅井」が「あざい」と読むことから「あざい」とする説が出てきて主流になった。ところが『人物叢書浅井氏三代』で宮島敬一氏が「あさい」説を主張して巻き返した。ところがさらに桐野作人氏が「南部文書」に「あさい」「あざい」が混在していることを指摘した。
⇒膏肓記 浅井の読み方/「あさい」か「あざい」か
「南部文書」には「あさいびぜんのか□」「あさいしもつけのかミひさまさ」「あざいびぜんのかミながまさ」「あざい三たい」とある。
他にも『大日本史料』を見てみると、「びぜんのかみ□」は「ひぜんのかミ」とも書いてある。また「二たゐめ」「二たいめ」、「三だい」「三たい」、「御てし」「御でし」と他にも濁点のあるものと無いもの等が同一文書内に混在している。
こうしてみると、使い分けているわけではなくて、筆者の徳勝寺の住持楊厳はあまりこだわらずに書いているようだ。「あさい」も「あざい」と読む可能性が高いように思われる。少なくとも慶長17年には「あざい」だったのではなかろうか?
まあ、俺にとっては戦国大名の浅井氏が「あざい」なのか「あさい」なのかは割とどうでもいいことではある。気になるのは「浅井」と「朝日」の関係であって、また浅井氏自身が、あるいは周囲の人々が「浅井」と「朝日」を関連付けていかのかということである。
で、浅井氏が戦国大名だった当時の読みはともかく、現在「浅井」という地名を「あざい」と読むということは厳然たる事実である。それはなぜなのか?いつからなのか?というのがとても気になるのだが、これが全くわからない。
「浅井」は普通「あさい」と読み、「あざい」とは読めない。なぜこれを「あざい」と読むのか?そもそも「浅井」を「あざい」と読んだのか?「あざい」に「浅井」という漢字を当てたのか?(これはおそらく前者だろうけれど)。
方言なのだろうか?「茨城」が「いばらぎ」と誤解されるのは、茨城県民が「いばらき」と言ってるつもりなのに、他県の人が聞くと「いばらぎ」に聞こえたからという説があるけれど、それと同じで、当人は「あさい」と言ってるつもりが「あざい」に聞こえたという可能性もある。ただし「茨城」は文字で書けばあくまで「いばらき」だが、「浅井」は「あざい」になってしまっている。
また「あさい」が「あざい」に変化したのなら。他の「あさ〜」という言葉も「あざ〜」となりそうなものだと思う。『節用集』(易林本)に「浅井(あざい)」「朝倉(あざくら」)とあるのはそのせいかもしれないけれど、他はどうなんだろうか?「朝日」は「あざひ」とか言ったりするんだろうか?「浅野さん」は「あざのさん」なんだろうか?そうなっているんなら納得できるけれど、そうでなかったとしたら、どういう理由なんだろうか?