真田昌幸の秀吉出仕について(その2)

『真田家譜』は二次史料であって一次史料より信頼性が劣る。そこをあえて信頼できると考えて検証してみる。『真田家譜』では天正15年正月7日に真田昌幸小笠原貞慶駿府の家康に謁したとする。


徳川家康天正14年10月27日に大阪城豊臣秀吉に謁見。11月11日に岡崎に帰還。12月4日に本城を浜松から駿府に移す。


天正14年11月4日に秀吉が上杉景勝に書状を送る。内容は真田を討つ果たすことに決めていたけれども、景勝の申し入れを聞いて真田を立て置き家康に召し出すことにした。景勝からも真田に申し聞かせるようにというもの(だと思う)。


すなわちこの時点で真田が徳川傘下になることは決まっていたということでしょう。


天正15年1月4日に秀吉は上杉景勝に書状を送る。内容は(平山優氏によると)真田の赦免と真田の上洛させるようにという指示。


そして『真田家譜』によれば1月7日に昌幸は家康に駿府で面会。1月4日秀吉書状が景勝を通して伝わったにしては早過ぎるけれども、前年11月には既に方針が決まっているので不自然なことではない。さらにこの時に『真田家譜』によれば家康は昌幸長男信之と本多忠勝娘の婚姻を媒介すると言ったという。この婚姻については様々な説があるようだが、この時期でも特に不自然はないように思われる。家康が公式に伝えたのはこの時期で前から交渉があった可能性も十分にあるし、秀吉の意向によるという説もあるけど、それと家康が公式に伝えたのとは別に矛盾することでもない。


昌幸が駿府に行ったのは突然決まったことではなくて前年11月頃には既に決まっていたことで、年始に挨拶に行くという形で訪問したと考えて特に問題があるようには思えない。これによって真田が徳川の傘下になることが公のものになったということだろう。ただしこの時点では(これらの出来事は秀吉が内々に指示したものではあるが)豊臣政権に正式に認められたものではない。


そうだとすれば、昌幸が大坂に出仕するについても、徳川の「仲介」によるという形式が出来上がる。酒井左衛門尉(忠次)は真田昌幸小笠原貞慶に同行して大坂に行ったのではないだろうか?



ところで丸島和洋のツイートによれば


となっている。

秀吉から家康に真田・小笠原を出頭させたので、徳川の与力とすると伝えた書状

の原文を読んでないのではあるけれど、丸島氏の解釈は文脈上、

真田・小笠原が家康を介さず大坂に行く→大阪で秀吉が真田・小笠原に徳川へ出頭することを命じる→真田・小笠原が出頭してきたので徳川の与力とした

と読める(俺の誤読かもしれないけど大河ドラマではこうなってたと思う)。


しかし、そうではなくて、家康が真田・小笠原を大坂に出頭させたので(その功によって)真田・小笠原を徳川の与力とすると書いてあるんじゃないかと(原文読んでないけど)解釈できるのではないかと感じてしまう。


この場合、家康の与力とすることはあらかじめ決まっていたのだから、表向きの理由として家康の功としたということであり、1月7日の駿府城訪問、酒井忠次同行の大坂出仕、それを理由として徳川の与力になるということは、あらかじめ作られたシナリオに沿ったものであり、秀吉・家康・昌幸・小笠原貞慶上杉景勝の間では事前にわかっていたことではないかと思われる。


もちろんこれは『真田家譜』の記事が事実だとしたらという話ではある。しかし俺の知る情報の限りでは、これに矛盾する史実は無いように思われるのである。