「淀君」が蔑称だという珍説

もう8年も前に書いたことだが、改めて書いてみる。

淀君」が蔑称だという説は小和田哲男氏と田中貴子氏がほぼ同時期に主張した。小和田氏の方が早いが、田中氏はそれを知らなかった由

 そもそも、通称の淀君という名前からして悪意にみちた意図的なネーミングである。(中略)しかし、中世においては必ずしも良い意味には使われていない。街娼のことを「立君(たちぎみ)」とか「辻君(つじぎみ)」といっており、「君」には、遊君、すなわち遊女としてのイメージがつきまとっている。特に女性の場合はそうである。
 本来なら、「淀の方」や「淀の女房」、「淀殿」と呼ばれなければならない彼女が「淀君」といわれたのは、豊臣家を滅亡に追いこんだ悪女という前提があったからである。
(『戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯』 (角川選書)

戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯 (角川選書)

戦国三姉妹 茶々・初・江の数奇な生涯 (角川選書)

 彼女が「淀君」と呼ばれるのは、江戸時代の戯作や講談で、色香で秀吉を篭絡し自由奔放に振る舞い、結果的には豊臣家を滅亡させた悪女として描かれてきたせいである。つまり、国を傾ける「傾国」、すなわち遊君のようであるから、「淀君」と呼ばれるに至ったのだ。
『あやかし考 不思議の中世へ』

あやかし考 不思議の中世へ

あやかし考 不思議の中世へ


未だにこれを根拠として「淀君」は蔑称だとする人が絶えないが、こんなバカバカしい話はない。


「君」で遊女だとすれば、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉正室である鷹司信子(浄光院)も「小石君」なので、遊女になってしまう。


江戸時代に「淀君」は「君」が付くので遊女で悪女なのだなどといったら、徳川に媚を売ってるつもりだったとしても、逆に反逆人になってしまうではないか。

なお、11代将軍・徳川家斉正室の近衛寔子(広大院)は「茂姫君」。徳川家祥(後の第13代将軍家定)の最初の正室の鷹司任子(天親院)は「有君」。二番目の正室の一条秀子(澄心院)は「明君」。そして三番目の正室が近衛敬子(天璋院)が「篤君」である。


ちなみに近衛敬子というのは今年の大河ドラマにも登場するあの天璋院篤姫のこと。:

七月七日の篤姫宛の近衛忠煕の口上使者(北小路刑部権少輔)によると、養女となったことにより「君号幷御名字」を幾久しくめでたく進められた(同、六四〇、『旧記雑録追録八』二三七、『島津氏正統系図』)。
(『天璋院篤姫―徳川家を護った将軍御台所』徳永和喜 新人物往来社

天璋院篤姫―徳川家を護った将軍御台所

天璋院篤姫―徳川家を護った将軍御台所


で、ここまででおおよそ察しがつくだろうけれども、鷹司信子(鷹司教平の娘)、近衛寔子(島津重豪の娘で近衛経熙の養女)、鷹司任子(鷹司政煕の娘で鷹司政通の養女)、一条秀子(一条忠良の娘)、近衛敬子(島津忠剛の娘で島津斉彬の養女を経て近衛忠煕の養女)というわけで、鷹司・近衛・一条は(摂政・関白に任じられる)摂家摂関家五摂家)である。つまり彼女たちが「君」なのは摂家の女性だからなのだ。


では「淀君」は?と考えれば、それは常識的に考えて関白太政大臣豊臣秀吉の家の女性だからということになるでしょう。史実として彼女に「君号」が与えられたということはないけれども、後世の人が彼女を摂家の女性と同等とみなして「君号」で呼んだということでしょう。


同様に、幕末に編纂された『徳川幕府家譜』で徳川家康の継室・朝日姫が「朝日君」、秀忠の継室・崇源院が「於江与君」とされている理由も彼女たちが豊臣家の女性だからだと考えれば合理的な説明がつくのである。(追記20:00 この部分は間違ってたようなので削除。なぜなら「於江与君」の項に「淀殿」と記してあるから。むしろ徳川将軍家に嫁いだ女性への尊称としての「君」か?ただし「淀殿」は秀吉御台で「於江与君」は秀吉養女だからという可能性もある。解釈難しい)


淀君」が蔑称などというのが珍説なのは明白であろう。