いい国つくろう鎌倉幕府(その2)

(その1)は2008年9月に書いた。


鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条−麗しの国日本
を読んで続きを書いて見る。


「幕府」の意味は国語辞典を調べてみると

《古く陣中にいる将軍が幕を張った中で軍務を処理したところから》
1 陣中で将軍がいる所。柳営。
近衛府唐名。また、近衛大将の居館。
武家政権の政庁。また、その権力組織。源頼朝が建久元年(1190)に右近衛大将に任ぜられたことからその居館を幕府と称するようになった。

ばくふ【幕府】の意味 - 国語辞書 - goo辞書


※ 本筋から少しずれるが「武家政権の政庁。また、その権力組織。源頼朝が建久元年(1190)に右近衛大将に任ぜられたことからその居館を幕府と称するようになった。」とあるのは近年の学界の動向を踏まえてのことだろうか?江戸時代の学者が武家政権のことを「幕府」と称するようになったとき「右近衛大将」までも意識していたのか俺は知らない。『吾妻鑑』に「幕府」とあり、それは確かに「右近衛大将」の居館の意味だが、『吾妻鑑』が「武家政権の政庁」の意味で使ってはいないというのが一般的な見解だったんじゃなかろうか?なんか頭が混乱する説明だ。


さて「頼朝が作り上げたと言われるシステム」として「幕府」という用語を使うべきか、そしてそれはいつ始まったのかという問題。


「幕府」と言う語が同時代に武家政権の意味で使われておらず、江戸時代になって用いられ始めたのだから、いっそのこと「幕府」という語を使うのをやめてしまうという選択肢もあり得る。ただし歴史用語として「幕府」の定義がしっかりしているのなら、使用したって別に構わないだろうとは思う。


鎌倉幕府の成立」はいつなのかという問題は「江戸幕府」と「室町幕府」の成立との関係を考える必要があろう。すると江戸幕府の成立は1603年徳川家康征夷大将軍に任官した年であり、室町幕府の成立は1338年足利尊氏征夷大将軍に任官した年であるけれど、1336年建武式目が制定された年が室町幕府の成立年とする説の方が有力であり、すなわち「将軍」に任命された年が成立年ではなく、武家政権が実質的に成立した年が重要だということになる。


すると、武家政権において「将軍」の価値は何かという問題が出てくるように思われ。何しろ「幕府」という語は「将軍」に関係しているのだから。


で、武家政権を「幕府」と呼ぶのは江戸時代からではあるけれど、しかしながら同時代において武家政権と幕府の関係が認識されていなかったのかというと、そうでもなさそうだという問題がある。


このあたりのことは話と長くなるので
平泉と鎌倉4 - heuristic ways
を参照のこと。


最も重要なのは「軍中、将軍の令を聞く。天子の詔を聞かず」ということ。戦争中は天子に一々お伺いを立てなくても、自己の判断で処理することが可能なのだ。


ということは、今は戦争中だという大義名分さえあれば、朝廷から独立して行動することも可能だということだ。すなわち「徳川三百年の太平の世」というけれど、一方では三百年間ずっと徳川将軍は軍事行動中だったという見方もできなくはないのではなかろうかと思ったりもする。


なお将軍は軍事行動に必要な物資を徴発する権利を有しているという。今は戦時中だということにしておけば武家の徴税権が正当化されるわけだ。


というような話は、検索すれば割とヒットする話ではあるけれど、鎌倉幕府の成立年という問題にはあまり絡んできていないような感じもする。


※ なお源頼朝征夷大将軍を1194年に辞任したという説がある。その場合頼朝が1199年に没し、源頼家が1202年に任官するまで8年もの空白ができてしまう。そしてこれは「そもそも頼朝が作り上げたと言われるシステムそのものが幻だ」という話に関係してくるだろう。すなわち頼朝の征夷大将軍任官は臨時のもので二代以降の将軍とは意味が異なり、そういう意味では「鎌倉幕府」は頼朝没後に成立したとすることだって不可能じゃないようにも思う(よくわからないけど)