室町幕府はいつ滅んだのか?

鎌倉幕府はいつ成立したのか?」の次はこの問題。

幕府の終期に尽いては、1573年に16代将軍足利義昭織田信長によって京都から追放され、足利将軍家が歴代相伝する山城国及び丹波国の御料所を織田政権に奪われた事によって事実上崩壊した。この間の約240年余りを室町時代と呼ぶ。しかし幕府自体は毛利氏庇護のもと渡辺氏の居館一乗山城で鞆幕府として存続していた。尚、明徳の和約(1392年。北朝南朝の統一)迄を南北朝時代明応の政変(1493年)以降を戦国時代と呼ぶ。
しかし、足利義昭は信長により京都から追放された後も、征夷大将軍を解官された訳ではない。信長の勢力圏外である九州・中国・四国・関東・東北地方においては依然足利将軍としての権威を有していた。『公卿補任』では、京都追放から15年後の天正16年(1588年)に義昭が関白豊臣秀吉に従って参内して、関白の秀吉へ忠誠を誓うまで征夷大将軍であったと記録する。義昭は将軍職辞任後、准三宮となり秀吉からも貴人として最後まで遇された。

室町幕府 - Wikipedia


より詳しく、かつ基本的なことは山田邦和教授が解説している
室町幕府の滅亡


足利義昭が京都追放後も征夷大将軍だったというのは、俺が歴史に興味を持ちはじめてすぐに知った衝撃の事実。ただし、それは単なる事実として語られたものであり、(名ばかり)将軍の歴史的意味などほとんど語られることがなく、そこが不満だった。


それからしばらくして藤田達生氏が本能寺の変足利義昭黒幕説を主張したことなどから、義昭が将軍だったことの意味が多少クローズアップされてきたように思う。


ただ、俺はこの衝撃的な事実を知った時から、いくつか初歩的な知識を欲しているのだが、今に至るまでわからないことがある。


第一に将軍は朝廷によって任命されるものだが、朝廷は将軍を解任できるのかという問題。


原理原則的には可能だと思われるが確かなことは調べてもよくわからない。そして朝廷は前例主義でもある。


将軍解任の実例があるのかと調べてみたけれどこれもよくわからない。


守邦親王鎌倉幕府最後の将軍)は辞職。
守邦親王 - Wikipedia


成良親王後醍醐天皇皇子)は「短期間で停止されている」とウィキペディアにあるけれど解任なのか辞任なのか調べてもわからない。
成良親王 - Wikipedia


徳川慶喜は辞職。
王政復古 (日本) - Wikipedia


成良親王は解任の可能性がなくもないが、直後に光明天皇の皇太子となっているので前例にはならないようにも思われ。


とにかくわからん。


(あと信長の三職推任の件も考えなければならない。信長が将軍職に就くためには義昭を解任しなければならないのだから
三職推任問題 - Wikipedia


第二に、織田信長はなぜ足利義昭の将軍解任を朝廷に要求しなかったのかと言う問題。


朝廷に将軍解任の権限がなかったのなら要求しなかったのも当然だ。しかし前例が無いという程度なら強行に要求することも可能なはず。


だけど、そもそも信長が義昭の将軍解任を望んでいなかったという可能性だってある。すなわち信長は義昭を最後まで見捨てていなかったという可能性。信長は幕府を滅ぼしたという自覚がなく義昭が信長に反抗しないのならいつでも京都に戻ってきて活動して構わないと考えていた可能性。


足利義昭の子の義尋は信長の手元にあった。

史料では「若公様」と表記されているが、これは信長が義尋を義昭に代わって将軍に擁立する構想を持っていたとする見方がある[1]。

足利義尋 - Wikipedia


出家しているけれど義昭だって出家していた。信長の第一希望は義昭が戻ってくることで、第二希望は義尋だった可能性もあるのではないか?


義昭将軍は既に実権を失っていたから信長は最早義昭が将軍であろうとなかろうとどっちでも良かったといった一応尤もらしい考え方もできるけれど、そうではなかった可能性は大いにあるのではないかと俺は思っている。