足利義政
1436年-1490年1月(在職:1449年-1473年)辞職
足利義尚
1465年-1489年(在職:1473年-1489年4月)死亡
足利義材
1466年-1523年
(1)(在職:1490年7月-1493年)
(2)(在職:1490年7月-1495年1月)
自分が任命した将軍の廃立に怒った後土御門天皇は一時は抗議のため退位を表明し、その後も政変を承認しなかった。このため『公卿補任』では、義材から義澄への将軍交代は後土御門の死後に行われたことになっている。
(足利義稙 - Wikipedia)
※後土御門天皇(1442-1500)
足利義澄
1481年-1511年
(1)(在職:1494年-1508年)
(2)(在職:1495年1月-1508年5月)
足利義稙(義材)
(在職:1508年7月-1522年1月)
足利義晴
1511年-1550年
(在職:1521年-1546年)
大永元年(1521年)3月7日、管領細川高国と対立した義稙が京都を出奔して、同月22日に行われた後柏原天皇の即位式に出仕しなかったために高国が警固の職務を行った。これによって天皇の信任を失った義稙の放逐を決意した高国は代わりの将軍として義晴を擁立することを決める。
正直室町時代は大の苦手だ。
義材は幽閉されたが、小豆島に流されることを知り、同年6月29日に側近らの手引きで京都を脱出して政長の領国である越中の放生津に下向し[6]、政長の家臣・神保長誠を頼ったため、越中公方(越中御所)と呼ばれた。この時の義材は単なる無力な亡命者ではなく、越中でそれなりの陣容を整えた政権を樹立していることから、後の足利義維の「堺幕府」や足利義昭の「鞆幕府」にならい「放生津幕府」と呼ぶこともある。
⇒足利義稙 - Wikipedia
この時点での足利義材は征夷大将軍だったのか?将軍じゃないのに「幕府」?(「堺幕府」もだけど)。
謎だらけ。一度調べてみなければならないけれど、とても面倒だろうということが予想され。