足利義昭御内書(その2)

面白い史料 - 我が九条−麗しの国日本

織田信長と対立していた足利義昭が、武田信玄と和睦して織田信長と戦うように「頼み入る」御内書。

御内書 « 歴探

 近頃、信長がほしいままにしていることが積み重なり、思いがけず京都を退きました。ということでこの時、甲州(武田氏)を一味とさせて天下静謐への奔走をさせるべく一色中務大輔を派遣しました。さらに一色藤長が申し伝えるでしょう。

これは水野信元宛御内書の訳だけれど、「甲州に一色中務大輔を派遣した」ことを水野信元に一色藤長が説明するという話のようにみえる。


家康宛御内書もそのように解釈できるとすると、これは単にそのことを家康に説明したというだけであって「織田信長と戦うように」という話ではないようにも思われる。


俺が気になるのは「然此節」。「就近般信長恣儀相積、不慮城郭取退候。然此節」信長のせいで都落ちしちゃいました。けれども…


と解釈すれば、「都落ちしましたので」ではなくて「都落ちしたけれど以前と変わりなく」前々から話のあった武田と徳川の和議について云々てことになるような気もする。



問題は「和談」。一応「武田に徳川と和睦するように使者を派遣しましたよ」と解釈することも可能か。

1 「和与(わよ)1」に同じ。
2 争い事を解決するために話し合うこと。また、その話し合い。和議。「両方談合して、或ひは―し」〈太平記・三五〉

和談 とは - コトバンク

1 中世の訴訟解決法の一。幕府の裁決に至る以前に訴訟の当事者間で和解すること。和談。
2 中世、相続人または他人に対する無償譲与。
3 折り合いをつけること。「―して命は生きたれども」〈盛衰記・三七〉

和与 とは - コトバンク


だが「和談」が本当に武田と徳川の和睦のことなのか?


元亀3年頃の信長と義昭にとって重要な政治課題は甲州と越後の和睦であった。信長は信玄の出陣準備は越後攻略のためだと思っていたらしい。織田と武田は同盟していた。三方ヶ原の戦いで織田が(武田にとって敵の)徳川に援軍を送ったことによって同盟は破棄された(とされている)。


「和談」とは武田と上杉の和睦のことで、それを命じたことを家康に知らせたという解釈も可能ではないかと思ったりしてみたり。


一色中務大輔という人物が甲州に派遣されたことがわかるが、この人物は古河公方足利義氏の家臣ではないかという説がある。

*2=『新訂 徳川家康文書の研究』掲載の「ほぼ同文の徳川家康宛内書」の注記には、(藤長)[一色藤長]とあるが、藤長の官位は式部少輔であり、『後北条氏家臣団人名辞典』の「中務大輔(なかつかさのだいぶ)」には、「古河公方(こがくぼう=室町時代後期から戦国時代にかけて下総国古河[茨城県古河市]を本拠とした関東足利氏)足利義氏の家臣。」とあり、「なお、年未詳九月二十五日足利義氏官途状(滋賀県立安土考古博物館所蔵下乃坊文書・戦古一一八四)で義氏から「中務大輔」の官途を受けた。」とあることから、本史料紹介では、「中務大輔」を古河公方足利義氏家臣に比定する。

【寄稿14】将軍足利義昭の御内書 »»Web会員«« : 水野氏史研究会


なぜ古河公方の家臣が派遣されたのかも重要な点だと思われ。


なお「差越」の意味は

1 一定の順序や手続きを踏まないで物事を行う。「所属長を―・して異動願いを出す」
2 送ってよこす。〈和英語林集成

さしこす【差(し)越す】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
であり、2「送ってよこす」で解釈することも可能だけれど、古河公方の家臣が派遣されたとしたら1の意味もあるのかもしれない。よくわからないけれど。