文明18年(1486)、聖護院門跡道興が大蔵坊に逗留
上野国大蔵坊といへる山伏の坊に、十日あまりとどまりて、同国杉本といふ山伏の所へ移りける。道にからす川といへる川に、鵜からすなど相交りて侍りけるを見て、また俳諧、
⇒廻国雑記
後に極楽院と係争が起こした際にこれを盾に取ったのではなかろうか?
長野業政(1491-1561)の帰依により良雲法印が極楽院を開く。
⇒城址 箕輪城 007 - 足軽 新之助の報告書 - Yahoo!ブログ
武田信玄は、「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆いたと言われるほど業正は信玄をてこずらせた。彼の死を知ると信玄は大いに喜び、「これで上野を手に入れたも同然」と述べて、すぐに軍を上野に向けたとされる。
弘治3年(1557)「聖護院御門主之御使僧森坊」が足利義輝の武田信玄と上杉謙信の和睦を働きかける内書を携え信玄のもとに下向。『武田信玄(笹本正治)』には永禄元年(1558)とあるが弘治3年が正しい(多分)。
永禄二年(1559)「瑞林寺」信濃守護職補任の御内書を携え下向。『武田信玄(笹本正治)』より。
弘治3年(1557年)には将軍足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている[12]。
鴨川達夫は「神田孝平氏所蔵文書」に含まれた足利義輝宛の手紙を根拠に、信濃守護補任が数年遡る可能性を指摘している(鴨川達夫『日本史リブレット人043 武田信玄と毛利元就 思いがけない巨大な勢力圏』山川出版社、2011年、57-60頁、ISBN 978-4-634-54843-5)
永禄9年(1566)、西上野侵攻、長野業盛(業政の子)自害。西上野を支配。
業盛の子・亀寿丸(2歳)は、家臣に抱かれて落ち延びて、城の南1里半にある寺・和田山極楽院に匿われたという。のちに出家して鎮良と名乗り、極楽院2代目の院主となった。
長野鎮良 (1562〜1607年 46歳没)
長野業盛の子。「浜川道場長野氏所有系図」の別記などに名がある。亀寿丸、興丸、豊前守。善長院開基、初代住職。珠阿弥陀仏。極楽院二代、伝灯正大先達大律師法印鎮良。永禄六年二月二十六日、箕輪落城時に家臣藤井忠安、阿保清勝らに連れられ城を脱出。この時、二歳。和田山に匿われ、極楽院開山良雲法印に師事。藤井、阿保ら旧臣も付近に居住。良雲法印は武田家を恐れ、将軍足利義輝を介して亀寿丸を聖護院道澄親王の弟子とする。
⇒長野家 家臣団
※「永禄六年二月二十六日」とあるけれど、永禄9年が正しいと思われ。もし系図にそう記されているのだとしたら永禄9年の年齢が2歳なのか5歳なのか…
永禄11年(1568)、信玄が極楽院に西上野行事職を認める(『中世の権力と列島(黒嶋敏)』)
※ 亀寿丸が聖護院の弟子となったのがいつなのか不明。聖護院が極楽院を上野国行事職とすることを躊躇していたということなら、それ以降のことか?
極楽院は信玄の敵だった長野氏と繋がりが強い寺なのに、なぜ西上野行事職を認めたのだろうか?また長野業政の支援で建立された当時としては歴史の浅い寺なのになぜ?あまつさえ長野氏の男子である亀寿丸をなぜ生かしておいたのか?情がわいたのだろうか?これは本当に信玄の意志だったのだろうか?
謎が多い。