(主に精神的に)疲労してブログ書く気力が衰えていたけれど、少し涼しくなってきて頭も冷えてきたので、そろそろ復活する。
Wallerstein氏が『中世の権力と列島』(黒嶋敏著 高志書院 2012)の書評を書いていて、これが非常に面白い。とはいえ俺は門外漢だから、知らないことだらけで理解できているとは全く言えない状況。そんなわけで室町時代についてもっと勉強しなければならないなあという思いが湧き上がってくる。それだけでも十分価値がある。
そんなわけで、今の俺にはこの問題に口を挟むところは殆ど無いのだけれど、一つだけ気になるところがある。それは、
武田信玄は西上野を支配下に置いたが、1568年に極楽院に信玄が認めた上野国年行事職をめぐって、大蔵坊と係争になる。年行事職は聖護院を頂点とする修験道本山派の役職であるが、信玄はこの問題を聖護院に委ねてしまう。信玄の手に余る事案だったのである。信玄はどうしても極楽院を年行事にしたかったようで、最終的に足利義昭に働きかけ、極楽院を年行事職に補任することに成功する。
黒嶋氏はこれを「戦国大名の手を離れて聖護院門跡に委ねられるだけでなく、将軍が裏で自ら指図していた」とする。しかし単純にそう言っていいのか、疑問が残る。信玄は最終的に足利義昭を通じて聖護院に圧力をかけ、自分の意思を貫徹した、と評価できないだろうか。ただ少なくとも信玄が足利義昭の介入を得なければ、本山派の役職は信玄の思い通りにならない、ということは認められよう。しかし義昭が信玄の意向に従っていることから見ても、「戦国大名の手を離れて」と評価できるか、という点は素朴な疑問としては残る。
⇒修験道本山派の再建 - 我が九条
という箇所。Wallerstein氏は黒嶋氏の主張に疑問が残るとしている。確かにそういう見方もできるかもしれない。
ただし、これは
信玄はどうしても極楽院を年行事にしたかったようで、最終的に足利義昭に働きかけ、極楽院を年行事職に補任することに成功する。
というのが事実だとした場合に、別の見方ができるということではないかと思われる。
この部分、原文では
だがその後、信玄は極楽院を上野国年行事職とするために将軍足利義昭にも働きかけたようで、義昭が道澄に極楽院を上野国年行事職補任を要請(19)すると、道澄は躊躇を示しながらもこれに従い(20)、
とある。これを見ると「働きかけたようで」とあり、信玄が義昭に働きかけたというのは黒嶋氏の推測であろうと思われる。なぜそう推測したのかというのは、これまた推測するしかないけれど、(19)(20)の史料から、義昭が道澄に要請したのは信玄の働きかけがあったからだと考えたからだと思われる(『群馬県史 資料編』が図書館になかったので史料未確認)。それは信玄が西上野を支配化に置いた際に、極楽院に「西上野年行事職」を認めた、すなわち大蔵坊と極楽院の係争がなければ、すんなり極楽院に決まっていた、つまり信玄の望みは極楽院だったということではないかと思われる。
ここで疑問に思うのは、なぜ信玄は極楽院に肩入れするのかということ。これが謎。なお、見ての通り信玄が極楽院に認めたのは「西上野年行事職」。西上野においては極楽院の勢力が大きかったので、信玄がそれを認めたということなのかもしれない(これ自体謎だけど)。しかし「上野国年行事職」の問題でも信玄が極楽院を贔屓したとするには材料が足りないようにも思える。
もしこれが信玄の意志ではなく義昭の意志だったとしても、それはそれで謎ではある。