武田信玄と極楽院と大蔵坊(その3)

「求めよさらば与えられん」


検索したらこんな記事が見つかった。

武田信玄→武田家家臣:浦野家(東吾妻町)の手紙
(★浦野安孫(やすひこ)氏の寄贈文書=浦野家文書)
 秋山正典氏の新発見
 極楽院受給文書の 「足利義昭→聖護院」
・永禄10年(1567)(秋山訳)5月19日の「足利義昭御内書」
任鴻信染帋毫候彼亀寿事
  (長野業盛=氏業の子:亀寿丸=鎮良)
信玄依為敵筋者被属御門弟儀
御斟酌尤存候併分國中彼徒
不恐申軍働依申一旦雖加誅罸
悪其罪不悪其人者智者金言
三尺験重信玄茂不便二存行之
  取立可遣之由相聞へ更後難
沙汰不可有之候条任頼申一二
吹聴候也謹言
  五月十九日   足利義昭花押
聖門(=聖護院)
待中 
 
 内容・・ 足利義昭が聖護院に依頼し、
      極楽院安堵と亀寿庇護を武田信玄に要請。

箕輪初心★箕輪城№91【井伊直政家臣:長野業親→長野業実とは?】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/ウェブリブログ


信玄が極楽院に西上野年行事職を認めたのが永禄9年(1568)。その前年にこの文書が発給されたという。


これを見るに、極楽院への西上野年行事職および長野氏の男子亀寿丸を殺さなかったのは、信玄の意志ではなく、足利義昭の意向(聖護院が働きかけたのかもしれないが)に従ったという可能性が高いように俺には思われる。

黒嶋氏はこの文書の存在を知らなかったのだろうか?それとも知ってはいたが信頼性に疑問があるとして採用しなかったのだろうか?