天下へ上洛

織田信長 (人物叢書)』(池上裕子 吉川弘文館)より

永禄九年(一五六六)五月九日、謙信が願文を書いて「武田晴信(信玄)たいぢ、氏康・輝虎真実に無事をとげ、分国留守中きづかいなく、天下へ上洛せしめ」ることを祈った(『上杉家文書』五一五)。信玄を退治し、北条氏康と和睦して上洛したいとあり、上洛が「天下へ上洛」すると表現されている。この「天下」は自分の「分国」=領国とは空間的に分離した場、京都のことであろうが、京都といわずに「天下」といったことに何らかの意味があると考えるべきであろう。

とある(P56〜57)。「天下へ上洛せしめ」とは「京都へ上洛する」という意味だそうだ。


しかし「京都へ上洛する」って「東京へ上京する」「頭痛が痛い」と同じじゃないのか?


単に「上洛せしめ」でいいではないか。


池上氏はそのあとに、

前期の謙信の「天下」は将軍をさすものではない。

と書いている。確かに将軍をさすものではない。なぜなら永禄九年に将軍の座は空席だからだ。


だが、この「天下」は足利義秋(義昭)のことではないのか?


永禄8年5月将軍足利義輝暗殺、一乗院覚慶は幽閉されるが7月に脱出。8月に上杉輝虎(謙信)に足利家再興を依頼する。10月に近江国矢島に移動。

義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす矢島の武家御所などと呼ばれていたことが記されている。

足利義昭 - Wikipedia


※12月2日六角義賢上杉輝虎に宛てた書状に「公方様」とある(『流浪将軍 足利義昭桑田忠親)


永禄9年2月還俗して義秋と名乗る。3月上杉輝虎の上洛を求める。4月、従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官。


そして5月に上記の願文。


タイミングからみても「天下へ上洛せしめ」の「天下」とは足利義昭のことだとするのが極めて自然であるように俺には思えるのだが。


確かに将軍ではない。しかし将軍であることが「天下」の必須条件なのだろうか?(これは例の鎌倉幕府の成立はいつなのかにもリンクしているような、していないような…)