足利義昭御内書(その6)

Wallerstein氏の解釈
足利義昭御内書の解釈 - 我が九条−麗しの国日本

就近般信長恣儀相積、不慮城郭取退候。然此節甲州令和談、天下静謐馳走頼入候。為其差越一色中務大輔。猶藤長可申候也。

三月廿日 御判

徳川三河守どのへ

近ごろ信長の放恣な振る舞いが続き、城も落とされました。そこでこの時期に甲州武田氏と和談して、天下静謐のために活躍して下さるように頼みます。そのために一色中務大輔を遣わしました。なお藤長が申すでしょう。

まず気になるのが「甲州令和談」。ここは「足利義昭甲州に和談を命じた」と解釈するしかないと思う。したがって一色中務大輔が派遣されたのは甲州ということになる。浜松には(一色)藤長が派遣されたということでしょう。


水野信元宛て書状で「歴探」さんが

近頃、信長がほしいままにしていることが積み重なり、思いがけず京都を退きました。ということでこの時、甲州(武田氏)を一味とさせて天下静謐への奔走をさせるべく一色中務大輔を派遣しました。さらに一色藤長が申し伝えるでしょう。

御内書 « 歴探
と一色中務大輔が甲州に派遣されたと解釈しているのが正しいと思います。


すると不思議に思うのは、なぜそんな回りくどい書状を書いたのかということで、上杉謙信宛書状には

此節遂和興天下再興頼入候

とあるわけで、家康にもそう書けばよかったはず。ということで、これはやはり徳川と武田の和睦では無いと判断するのが妥当ではないかと思うわけです。