足利義昭御内書(その7)

一方、「歴探」さんの解釈にも疑問があるわけで。

近頃、信長がほしいままにしていることが積み重なり、思いがけず京都を退きました。ということでこの時、甲州(武田氏)を一味とさせて天下静謐への奔走をさせるべく一色中務大輔を派遣しました。さらに一色藤長が申し伝えるでしょう。

御内書 « 歴探


『後鑑』によれば水野信元宛書状が「同断」すなわち「同じ理(ことわり)」であるはず。一方は武田に「和談」を、一方は武田に「一味」を命じたというのは、「一味」が足利義昭に一味するという意味であった場合は意味が異なるのであり、また俺は「一味」は対等な関係を意味すると思うので、これは大名間の話であろうと思えるわけです。


※ そもそも現在進行中の話とするのが不自然。武田信玄は元亀3年5月に義昭に忠誠を誓っており、義昭は5月13日に御内書で天下静謐のために軍事行動をせよと命じている(『武田信玄』平山優)。信玄は信長と同盟していたが裏ではとっくに裏切っていたのだ。(天正2年説を採れば勝頼に代替わりしたからと考えることもできるかもしれないけれど)


では、武田とどの大名が「一味」するというのかといえば、もちろん徳川という可能性もあるけれど、水野氏とて三方ヶ原の戦いで織田・徳川方であったのであり、徳川よりもまず自分のことだろと思うわけで。


可能性としては武田と水野が「一味」になるという意味で解釈できないこともない。そうすれば武田と徳川の「和談」と符合する。


けれど、やっぱり書状には「甲州に命じた」と書くよりも、水野に「武田と和を結ぶことを頼み入る」と書くほうが自然ではなかろうか?


というわけで、こちらもやはり武田と上杉が「一味」するという意味ではなかろうかと思うわけです。