楽地楽座とは何だったのか?(その20)

近年、岐阜市街地の衰退が甚だしいと聞く。

規模の大きな繊維問屋街が街を支えて来たが、近年は安い輸入品の台頭や、名古屋や東京への流通の集中などで衰退し、再開発に迫られてきている。近年、中心市街地の空洞化が激しく、近鉄百貨店や新岐阜百貨店、岐阜パルコと中心市街地の大型商業施設が次々と閉店。大規模な駐車場を備えた郊外の乱立する大型商業施設に商業の中心が移っている。2006年(平成18年)には10年で中心市街地の人口が2割減少し、休日に柳ヶ瀬を訪れる人は6割減少したと報告されている。又、岐阜・名古屋間のアクセス時間の短縮(JRで最速20分、朝ラッシュ時25分)で、高級品などを名古屋で購入する傾向も生まれ始めた。中心商店街の柳ヶ瀬も、経営者の高齢化を迎えている。岐阜駅前に、岐阜シティ・タワー43が建設されるなど、駅前立地での復活も始まっている。

岐阜市 - Wikipedia

  • 理由その1 繊維産業の衰退。これは近年というよりも、かなり衰退する一方だったといって良いだろう。
  • 理由その2 大規模駐車場を備える郊外の大型商業施設。わざわざ岐阜に買い物に行く動機がなくなった。
  • 理由その3 高級品は名古屋で買う。


郊外の大型商業施設や名古屋に客を奪われ岐阜市街は衰退している。これと同じようなことが信長の時代にもあって、岐阜城下町という大型商業施設との競争に敗れて加納楽市場は衰退したのだろう。そして衰退したのは加納楽市場だけではなく、近郊の市場は軒並み衰退していったのではないだろうか?と俺は思うのだ。


「永禄10(1567)年に織田信長稲葉山城を攻略し、名を岐阜と改め城下町を発展させた」というのは一般に言われているところであって、全くその通りだと思うのだけれども、岐阜城下町発展の理由は「楽市楽座令」によるものではない


では、どうやって発展させたのかといえば、「信長と岐阜城下町」といえば大抵「楽市楽座令」の話になっているのであり、それ以外のことを書いているものがなかなか見つからない。専門書には書いてあるかもしれないので今度探してみる。


ただ、その前に俺の思うところを書いてみる。


信長が岐阜を攻略したのは永禄10(1567)年。その2年後の永禄12(1569)年に宣教師ルイス・フロイスは岐阜にやってきて、その様子を記した。

当時の岐阜町について、「人々が語るところによれば、八千ないし一万の人口を数えるとのことであった。・・・(中略)・・・同所では取引や用務で往来する人がおびただしく、バビロン(世界文化の中心として栄えたイラク中部にあったメソポタミアの古代都市)の混雑を思わせるほどで、塩を積んだ多くの馬や、反物、その他の品物を携えた商人たちが諸国から集まっていた」と記しています。

岐阜観光コンベンション協会|織田信長と岐阜 7.岐阜城下の繁栄


稲葉山城攻略からたった2年後のことだ。フロイスは他の城下のことも知っているだろうから、その上で、このような繁盛ぶりを書いているものと思われる。どうして短期間にここまで発展させることができたのだろうか?もちろん斎藤氏の時代にも城下町はあった。しかし信長の新城下町は斎藤氏の時代と比較して格段に発展したのだと思う。

  • 理由その1 「平和」。織田と斎藤が争っているときは織田方が何度か城下まで迫った(織田塚はそのときのもの)。軍事的なことは詳しくないけれど織田方が城下まで迫れたのは濃尾平野だから尾張から岐阜までの間を比較的容易に移動できるからだろう。尾張美濃を信長が支配すれば外敵が岐阜の町を攻撃するのは余程のことがあった場合ということになるのではないか?
  • 理由その2 尾張商人の岐阜城下町への移住。これにより当然斉藤氏時代よりも人口が増える。
  • 理由その3 諸役免許。楽市楽座に諸役を免除したのは有名だが、免除したのは楽市楽座の住民にだけではない。当然岐阜城下町の商人に対しても全員にかはともかく同様のことがなされただろう。ところで「加納楽市場」は浄泉坊の寺内町であり、諸役を免除されても浄泉坊には金銭を納めたと考えられるけれども、岐阜城下町の場合は信長支配下にあるのだから寺社に納める必要はないと思われる。ただし信仰心の熱い時代のことだから寺社に「自主的に」納める人もいたに違いない(それについては後で)


以上のような理由により、岐阜城下町は斉藤氏時代よりも発展したと思われるが、それに付け加えて、信長は城下町に人が集まる重要な仕掛けを作ったと俺は思う。


それは城下町内部への寺社の移転である。


これは、今回初めて知ったのだが、非常に重要なことだと思う。


岐阜城下町の空間構造と材木町 - 愛知県立大学学術リポジトリ
という論文によれば、信長は啓雲山法華寺日蓮宗)・東岩山勝林寺(曹洞宗)・浄土院(浄土宗)・本覚寺大雄山妙覚院誓願寺(浄土宗)・本龍山等訓院大泉寺(浄土宗)・松亀山誓安寺(浄土宗)・愛護山林泉院安乗院(真言宗)・法運寺(浄土真宗)などを城下町に移転させている。


このうち法運寺(浄土真宗)を除いた寺院は、地図で確認したところでは伊奈波神社参道のほぼ延長上に位置している。伊奈波神社は元は稲葉山にあったが天文8(1539)年、斎藤道三稲葉山城を築城するに当たり現在地に遷座した。信長はその伊奈波神社から伸びる参道を基本線として寺社を誘致したということだろう。ここは岐阜城下町の内部である。斎藤氏時代にも城下町内部に寺社があるにはあったが、それとは趣を異にするものではないだろうか?


前にも書いたけれど寺社と市場は緊密な関係にある。寺社の門前には人が集まり市場ができる。その門前町の機能を信長は城下町に取り込んだのではないだろうか?


ところで、上には書かなかったけれども、信長の岐阜城下町を調べて非常に驚いたことがある。


岐阜城下町には善光寺があった。


いや、伊奈波神社の近くに善光寺があることは知っていた。岐阜に行った時に見学したし。しかしその説明は

善光寺の本尊は甲州征伐後、織田信長の手で天正10年(1582年)3月に、岐阜城下の伊奈波神社の近くに移された。

善光寺 (岐阜市) - Wikipedia
というものであり、信長が岐阜を攻略してからずっと後のことだと思っていた。


ところが、山科言継が岐阜を訪れた永禄12(1569)年(フロイスが訪れたのと同じ年)に、言継は善光寺に参詣しているのだ(しかも2度)。


永禄12年7月19日

○妙永忌日の間、善光寺如来え参詣、

近代デジタルライブラリー - 言継卿記. 第四


永禄12年8月7日

誓願寺、同尾州岩蔵之誓願寺、當所候善光寺如来等へ参詣。

近代デジタルライブラリー - 言継卿記. 第四


甲陽軍鑑』によれば、永禄11年に武田信玄家臣の秋山伯耆守(虎繁)が岐阜に赴いたとされているので、それと関係しているのだろうか?「誓願寺」とあるので「善光寺如来」は現在地と同じか、近くにあったものと思われる。


本尊があったとは思えない(一時的に移動した可能性は少しはあるかもしれない)けれど、とにかく「集客効果」は抜群だったのではないだろうか甲斐善光寺甲府市)まで行かなくても善光寺参りができるのだ。言継も2度参詣しているし、岐阜近郊だけではなく遠くからも参詣者が来ていたのではないだろうか?



このような手法は信長が最初だったのかは俺は知らないけれども、信長が斎藤氏の城下町だった井口を、大幅リニューアルして集客力抜群の大型商業施設「岐阜」として新装開店して、短期間の内にポルトガル人も認める大都市にしてしまった。周囲にあった寺社と繋がりのある零細商店は対抗する術もなく衰退し、彼らもまた岐阜城下町に吸収されていった。


そういうことだと俺は思いますね。