楽地楽座とは何だったのか?(その17)

諸研究者はそれぞれの見解の違いはあれど、戦災によって楽市場の人が減っていたのを、信長が楽市令によって戻ってくることを促し、また新たに商人が流入することを促したと解釈している点ではほぼ一致していると思われる。


しかし、俺の考えは全く逆だ。当時の「加納」は人で溢れかえっていたのだと思う。


「加納楽市場」が浄泉坊の寺内町で、信長が恩賞として楽市令を出したのだとすれば、それは浄泉坊及び寺内町が、かねてよりの織田氏とのゆかりに加えて、斎藤龍興稲葉山城攻略において協力したからだと思われる。


寺内町がどこにあったにせよ、そこは稲葉山城の目と鼻の先にある。すなわち織田軍の最前線にあったと考えられる。は浄泉坊は中世の寺であるからして要塞の機能を持っていたと考えられ、また寺内町も濠や土塁で囲まれていたと思われ、軍事的な拠点になるだろう(付け加えるなら寺内町には武具等を作る職人もいただろうから、戦争に必要な物資を入手するのに便利でもある)。


したがって、寺内町には従来からの住人だけではなく、織田方の武士も多数立て籠もっていたと思われる。さらには武功を立てて一旗上げたいと考える者達も集まってきただろう。


(なお、諸研究者は戦乱によって楽市場から逃げ出した住人を想定しているけれども、ここが浄泉坊の寺内町で信長に協力したのであれば、彼ら門徒達が逃げ出すということはなかったと思われる)


かくして、加納一帯には戦争特需が発生し、武士の食糧その他の需要に応じるために、近郊の百姓もこの地に集まっていたのではないだろうか?つまり戦災を避けるために人が減ったどころか、その逆に人が集まって溢れ返っていたのではないだろうか?


そして永禄10年、信長はついに稲葉山城を攻略して名を岐阜と改め、ここに戦争は終結し、平和が訪れる。戦争が終われば戦争特需も終わり、加納に集まっていた百姓も元いた村に帰っていく。しかし中にはそのままここに居座る者もいたのではないだろうか?


元からの住民にしてみれば迷惑な話である。寺内町にいた人々は、俗世間との縁を切ってこの地に安住していたのに、彼らによってその生活が乱される。彼らは新規住民ではなく浄土真宗門徒でもなく単に居座っているだけの者であり、浄泉坊に金銭を納めることもしないただの迷惑でしかなかった存在であろう。


また寺内町だけではなく、その周辺(北加納一帯)にもそういった者達が居座って勝手に田畑を刈り取ったりする。近隣住民にとっても迷惑な存在であっただろう。永禄10年に「北加納」に宛てられた

右当郷百姓等、可罷帰候、然上者伐採竹木、猥作毛刈取、於令狼藉者、可成敗也、仍下知如件、

という制札は、戦争が終わったのに、元いた場所に帰らないそういった者達を追い出すためのものであろう。これを「北加納」から逃げ出した農民の帰還を促すための命令だと諸研究者は解釈しているけれども真逆の話だと思う。


楽市楽座令」には、住人ではない不法な滞在者の排除といったことは条文には書いてないけれども、そういった背景の元に出されたものであって、加納楽市場の住人の権利を保証するためのものである。


よって、楽市楽座令は戦乱を避けて楽市場から逃げ去った住人の帰還、さらには新規の住人を呼び込もうといった意図で出されたものではないと俺は考えるのである。