楽地楽座とは何だったのか?(その18)

信長が永禄10(1567)年・永禄11(1568)年に出した楽市楽座令の第一条

(永禄10年)
一 当市場越居之者、分国往還不可有頂、井借銭・借米・地子・諸役令免許訖。難為譜代相伝之者、不可有達乱之事、

(永禄11年)
一、当市場越居之輩、分国往還煩有へからす、并に借銭・借米・さかり銭・敷地年貢・門なみ諸役免許せしめ訖、譜代相伝の者たりといふとも、違乱すへからさる事、


これが天正11(1574)年に池田元助が「加納」に宛てたものだとこうなる

一、当市場越居之輩、國中往還煩あるへからす、并町中門並諸役免許せしむる事、

「借銭・借米・地子」や「難為譜代相伝之者、不可有達乱之事」が消滅している。


そして慶長5(1600)年の織田秀信禁制になると、宛先は「加納寺内」となり

一、伐採竹木、并門次諸役令免許事、

と第三条に記されることになる。ここではもう楽市楽座自体が消滅している。


これはなぜか?勝俣鎮夫氏は『岐阜市史』で

加納の楽市場もその後次第にその特権を権力によって奪われていった。わずか一六年後の天正一一年の池田元助掟書では、なお楽市楽座という言葉が使用されているが、楽市場の基本的性格を示す来住者の借銭・借米免除、奴隷の解放条項、さらには地子免許がすべて消されているのである。そして、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いの際だされた織田秀信制札では、円徳寺寺内楽市場がまったく消滅してしまったことが知られる(円徳寺文書)。おそらく大阪・金沢・姫路などの場合と同じく寺内町の住人は、城下町に吸収されていったものと思われる。

とする。他の研究者がどう考えているかは不明。俺が見ているのは主に「織田信長研究」だから、それ以降のことに言及していないのかもしれない。


ただし1600年の織田秀信禁制の宛先は「加納寺内」であり、「近年の研究」では楽市楽座と円徳寺は無関係というのが主流だそうだから、秀信禁制も楽市楽座令と無関係と考えているのだろうと思われる。しかし、楽市楽座令が消えたことと「加納寺内」の制札が登場したことが無関係だというのは実に不思議な話である。この点から考えても「近年の研究」に俺は全く同意することができない。


では「近年の研究」が否定する勝俣氏の考察に同意できるかといえば、こちらも同意することができない。


俺の考えでは、天正11(1574)年の池田元助楽市楽座令から、「借銭・借米・地子」や「難為譜代相伝之者、不可有達乱之事」が消滅している理由は、大名権力によって特権が奪われたのではなくて、16年の歳月がその特権の必要性を薄めたからだと思う。


既に書いたことだが諸研究者が誤解しているのは「借銭・借米・地子・諸役令免許訖。難為譜代相伝之者、不可有達乱之事」のうち「諸役令免許」だけを楽市・楽座の住民に課す税金だと考えていることだ。しかしこれらはひと続きであり、他は「当市場越居之者」がそれ以前に俗世間で結んだ縁が切られたことを示したものなのに「諸役令免許」だけがそれとは異質のものだというのは明らかにおかしいのであり、この「諸役令免許」も、俗世間において未払いの税金の支払いを免除するという意味だと考えるのが自然というものだ。そしてこれが「縁切りの論理」を前提としたものであるからには、今後の新規の諸役の支払いも免除されているというのが制札には書いてなくても当然の理屈であるはずだ。


しかるに天正11年の制札では「借銭・借米・地子」や「難為譜代相伝之者、不可有達乱之事」が消えているのは、「借銭・借米・地子・諸役令免許訖。難為譜代相伝之者、不可有達乱之事」という「縁切り」に関わることが全て消えて、新たに「町中門並諸役免許せしむる事」という一般に付け加えられたと考えるべきである。すなわちアジールの住民が俗世間にいたときに負った債務を免除する条項が全て消えて、その代わりに信長の制札には無かった(ただし当然の論理として存在していた)住民に対する新規の諸役免除の条項を付け加えたのである。


では、なぜアジールの外で負った負債に関する条項が消えたかといえば、それは大名権力による権利の剥奪ではなく、16年の歳月が経過することによって、永禄10年時点のアジールの住人が俗世間で負っていた債務の返済を迫る債権者が減ってほとんどいなくなってしまったことの反映であろう。つまり不要になったから無くしたに過ぎず、万一そのような者がまだいたとしても「國中往還煩あるへからす」という条項で対処できるとしたのであろう。


しかし、こんなことを言っても納得する人は少ないだろう。なぜなら信長の楽市楽座令は、市場に人を集めるための政策だと考えられているからである。永禄10年時点での住人へ債務返済を迫る人は16年の歳月で減ったかもしれないが、それ以降も加納楽市場には人が続々とやってきたはずだから、彼らに債務返還を迫る人もまたいるに決まっていると。


だが、その前提は間違っていると俺は思う。


「加納楽市場」は信長が楽市楽座令が出して以降、人が増えなかった。むしろその後は徐々に衰退し、ついには消滅してしまったのだと俺は考える。