楽地楽座とは何だったのか?(その19)

信長は楽市楽座令により商人を集め市場を発展させようとした。それは安土城下町について言えば全くその通りだ。だが加納楽市場はそうではない。加納楽市場は浄土真宗浄泉坊の寺内町であって信長のものではない。また岐阜城下町でもない。信長は織田氏ゆかりであり、また稲葉山城攻略に協力したであろう浄泉坊と門徒の住む寺内町に恩賞として楽市楽座令を出して彼らの権利を保証したにすぎない。


加納楽市楽座令は信長の市場振興策では全く無い。加納楽市場はその後衰退し遂には消滅してしまた。なぜなら加納楽市場は商人にとって魅力ある市場ではなかったからだ。


その理由は既に書いたように、第一に、加納楽市場の住人になるには「縁切り」が必要だったこと。負債がチャラになるだけではなく俗世間で結んだ縁を一切捨て去ることが必要だった。第二に、浄土真宗の信者であること。浄泉坊の寺内町なんだから当然であろう。第三に、諸役免除とは信長が税を取らないということであって、浄泉坊には何らかの形で税に相当するものを納める必要があったと考えられること。


そうであれば、既に寺内町に住んでいる俗世間と縁を切った真宗門徒にとっては楽市楽座令は意味のあるものだが、それ以外の者にとっては特に魅力のあるものではない。


これも既に書いたことだが、稲葉山城攻略の際に加納一帯は織田軍の最前線になっていたと考えられる。それによって特需が生まれ近郊の人々がここに集まってきた。その一部が戦後も居座っていたと考えられる。彼らは寺内町の住人にとっては迷惑な存在であり、彼らを新住民として迎えるよりも、むしろ彼らが出て行くことを願っていただろう。


このように加納楽市場は大多数の者にとっては魅力のあるものではなかったけれど、俗世間での縁を断ち切り真宗門徒となってここに住みたいと望むものはいたに違いない。だから楽市場の人口が増える可能性はあった。


しかし、それも難しかったに違いない。なぜなら信長と本願寺が対立したからだ。この事態に対して浄泉坊は中立を保ったものと考えられる。しかしながら浄泉坊が浄土真宗の寺院であることに変わりはない。岐阜城の近くにある浄土真宗寺内町の人口が増えていくことは、いくら中立だといっても信長にとって潜在的脅威であろう。浄泉坊と寺内町にとっても信長に疑われるようなことは避けるべきことだ。したがって寺内町への人口流入は抑えられていたであろう。


さらにいえば、浄泉坊が中立を保っていたとしても、寺内坊の住人の考えが一つにまとまっていたとは限らない。彼らの中には本願寺に従い信長と戦おうとする者もいただろう。とするならばそういった人達の中には浄泉坊の寺内町を去って伊勢長島や大坂に向かった者もいただろう。だとすれば寺内町の人口は減少する。また本来は新規住民になるはずだった人々の中にも同様の理由で浄泉坊ではなく他所に行ったものもいただろう。


以上の理由から加納楽市場は信長の楽市楽座令によって権利を保証されたけれども、それで人口が増えたかといえば、そうではなく逆に減ったのだろうと思うのである。


だが、加納楽市場の衰退を決定づけたのは、何にもまして、近所に大型商業施設が出来たからではないかと思う。


言うまでもなくイオンのことである…(違う)


岐阜城下町のこどである。