楽地楽座とは何だったのか?(その14)

 つまり信長は、このようなアジール的な場を楽市令によって保証しながら、その権力に取り込んでいったということである。
 このような見解に対しては、堀新氏および小島道裕氏などより反論が出されている。堀氏は、富田林寺内町の例を引いて、信長が寺内町の特権は否定する姿勢であったことを論証した〈堀新一九九〇論文〉。小島氏は、信長の楽市楽座政策というのは、あくまでも都市建設のための時限的な特権を決めた法令であり、特定の都市に限定された一種の特許状であった、と説いている(小島道裕一九八四論文)。

「このような見解」というのは勝俣鎮夫氏の見解。俺は勝俣氏の見解に概ね同意している。ただし「その権力に取り込んでいった」という説明は誤解を生むだろう。勝俣氏は、慶長5年の織田秀信制札では円徳寺寺内楽市場がまったく消滅してしまったとして、

おそらく大阪・金沢・姫路などの場合と同じく寺内町の住人は、城下町に吸収されていったものと思われる。

と書いている。つまり、加納楽市場を権力に取り込んだのではなくて、加納楽市場の衰退と商人の岐阜城下町への移転によって取り込んだという意味であろう。これは重要な点なのでまた後で書く。


とにかく、この勝俣鎮夫氏の見解について、堀新氏と小島道裕氏が異議を唱えたそうだ。小島氏の主張はまだ読んでいないが概説を見る限り俺には到底同意できないものであろうと思われる。それについては氏の著書を読んでから書くつもり。


堀新氏の論文も読んでいないけれど、

富田林寺内町の例を引いて、信長が寺内町の特権は否定する姿勢であったことを論証した

というので十分だろう。これについては堀新氏は正しいと思う。信長は「革命児」であり、この「革命」とは、中世の自治的な社会から近世の集権的な社会への移行という意味であり、信長が寺内町のような自治的な組織を否定するのは当然であるように思う。


そこで堀新氏は、加納楽市場がが勝俣鎮夫氏の言うような寺内町であるならば、信長がそれを認めるはずがない(ゆえに加納楽市場は寺内町ではない)、ということを言いたいのだと思われる。


もし、加納寺内町が単なる寺内町だったのなら、その通りだろうと俺も思う。しかしそうではないのだ。


この加納寺内町の中心をなすのは浄泉坊という浄土真宗の寺院(後の円徳寺)であり、円徳寺はその看板にある通り織田信長公ゆかり」なのだ。より正確にいえば「円徳寺は織田氏ゆかりの寺」なのだ。


既に書いたことだが、俺が岐阜に行って「織田信長公ゆかり」の看板を見つけて円徳寺を見物したとき、楽市楽座に無知でなおかつさして興味もなかった俺が注目したのは「織田塚」である。

天文16年(1547年)、織田信秀(信長の父)が岐阜(当時は井ノ口)に攻め入った際、斎藤道三に大敗し5,000人ともいわれる戦死者が出ました。この戦死者を弔うための織田塚が浄泉坊に築かれました。現在も円徳寺境内に安置されています。

円徳寺|岐阜観光コンベンション協会


斎藤道三の時代に既に円徳寺は織田氏と「ゆかり」ができていたのだ。


さらに、円徳寺にある梵鐘は信長が寄進したもので、永禄7年霜降月(11月)11日の銘がある。信長の岐阜城攻略は永禄10年なのでそれより前のことだ。信長の岐阜城攻略の際に浄泉坊は織田氏に協力したのであろう。


また信長死後のことになるが、岐阜城主となった織田秀信(三法師)は、関ヶ原の戦いで西軍に加勢し、降伏した後に浄泉坊で剃髪した。これもまた織田氏と浄泉坊の結びつきを示すものだろう。関ヶ原の戦いの際に本願寺教如の帰洛を助けたという(なお関ヶ原の直前に教如は関東に下向して家康に接近していた。
(こうしてみると円徳寺は教如との関係が強かったように思えるけど、円徳寺が大谷派でなく本願寺派の寺院なのは織田秀信が西軍だったからだろうか?)


このように浄泉坊は信長が美濃を攻略する前から、織田氏との「ゆかり」があったのだ。


そう考えれば、信長が加納楽市場に楽市楽座令を出して権利を保証したのは、戦後復興策でも市場振興策でも城下町発展のためでもなく、美濃攻略以前からの協力に対する信長の恩賞だったと考えられるだろう。


こんなことは、加納楽市場が岐阜城下町にないということを知ってすぐに思いついたことである。制札を所蔵しているのが円徳寺で、その寺が「織田信長公ゆかり」なんだから、その意味は当然考慮されるべきである。しかしながら研究者の間ではそうではなかたらしい。


知る限り唯一それに言及しているのは安野真幸のみである。
CiNii 論文 - 加納楽市令
円徳寺の梵鐘について安野氏は

これまで研究者たちは注目してこなかった

と書いている。何で注目しなかったのか不思議だ。勝俣鎮夫氏でさえ浄泉坊と織田氏の関係に言及していない…


ただし安野氏はここで「源平交代思想」云々といった、同意しかねることを書いている。また結局のところ楽市楽座令が「町の繁栄策」だという説から抜け出していない。


しかし、信長が加納楽市場に楽市楽座令を出したのは恩に報いるためであって、それ以上の意味を考える必要は全くないのだ。


本来なら加納楽市場のような自治的な組織は潰して、信長に直属する市場を開発するのが信長が目指す方向なのだ。にもかかわらず「織田信長公ゆかり」であったゆえに加納楽市場だけを特別扱いしたのだ。


しかしながら、結局のところ加納楽市場は消滅した。それはなぜかといえば、信長が意図的に加納楽市場を潰そうとしたからではない。信長が本来目指している市場政策が浸透したために、自然と加納楽市場が衰退してしまったからだろう。