加納楽市楽座令の条文の解釈について気になること(その1)
(永禄10年)
一 当市場越居之者、分国往還不可有頂、井借銭・借米・地子・諸役令免許訖。難為譜代相伝之者、不可有達乱之事、
(永禄11年)
一、当市場越居之輩、分国往還煩有へからす、并に借銭・借米・さかり銭・敷地年貢・門なみ諸役免許せしめ訖、譜代相伝の者たりといふとも、違乱すへからさる事、
この「諸役」というのが何かについて安野真幸氏は、
それゆえこの場合の諸役免許は〈住民税の免除〉を意味し、「諸役」は「守護役」や「地下役」で、外から市場にやってくる外来商人に対する〈営業税〉ではないので、この「諸役免許」文言から、通説〈「営業税」を免除されたのが楽市場〉の主張は導き出せないことになる。通説の根拠は、Ⅰの「楽市場」がⅡの「加納」と「楽市楽座之上、諸商売すへき事」に対応するとの理解と、天文十八年(1549)近江の守護六角氏が観音寺城下の石寺新市を楽市としたことからの類推であろう。
(中略)
しかし、この場合の「諸役」は〈住民税〉で両者の間には共通性は確認できないのである。勝俣は「縁切りの原理」を前提に、「市座や問の禁止されたところと」さえ述べているが、制札Ⅰには根拠となるものは存在していない。
⇒CiNii 論文 - 加納楽市令
と主張する。この「諸役」が「営業税」でないことには全く同意する。しかしながら研究者諸氏はもっと根本的な勘違いをしているのではないだろうか?
研究者諸氏はこの第一条の条文を、全体としてみたとき、「諸役」が「営業税」であれ「住民税」であれ、ここにそれが入ることに不自然さを感じないのだろうか?
永禄10年と永禄11年の制札は基本的には同じことを言っている。まず、「加納楽市場に移住してきた者は、分国の往還に煩いがないということ」。なおこれを「移住しようとする者」と解釈するのは間違っている。これは加納楽市場に移住した商人が商売のために楽市場の外に出て信長の分国を往還をするときに煩いが無いということだ。
ではこの「煩」とは何か?ということが重要になる。
その「煩」の具体例が「井借銭・借米・地子・諸役令免許訖…」なのだ。
「加納楽市場」は「アジール(聖域)」である。聖域の中では俗世間にいたころの「縁」が切れるのである。
アジールに逃げこんだからには、俗世間で背負った負債も取り立てることができない。「借銭・借米」については、諸研究者もアジールと見ているかはともかく、そのように考えているのだろう。しかし「借銭・借米」だけではなく「借銭・借米・地子・諸役令」全てをそのように考えるべきなのだ。文脈から考えて極めて当然のことでしょう。
すなわち、ここでいいう「借銭・借米・地子・諸役令」とは、加納楽市場に移住した者が俗世間にいたときに背負った債務のことである。
それが加納楽市場というアジールに居住することによって債務の返還が免除されるということだ。ただし、そのことは制札に書いてない。制札に書いているのはそれ以上のことである。
制札が述べているのは、加納楽市場というアジール内だけではなく、アジールに居住する者は、アジールの外に出てもなお信長の分国内であれば債務の返済を迫られないということだ。
「借銭・借米・さかり銭・敷地年貢・門なみ諸役免許せしめ訖」に「訖」とあるのは、加納楽市場に移住した者は、既に俗世間で背負った債務が解消されているという意味である。
どう考えたってそう解釈するのが合理的でしょう。
そして次に「難為譜代相伝之者、不可有達乱之事、」とある。俗世間において代々の主従関係にあったものも、アジールに入ることによって主従の縁が切れるのである。これもまたアジールと見ているかはともかく、こう解釈している研究者はいる。とすれば「借銭・借米・地子・諸役令免許訖。難為譜代相伝之者、不可有達乱之事、」の「借銭・借米」を楽市場の外での債務と考えて「難為譜代相伝之者、不可有達乱之事、」もまた楽市場の外での主従関係と考えて、その中間にある「諸役」をそれとは全く違った意味で理解するのは極めておかしい話ではないか。
※ 池上裕子氏は『講談社 日本の歴史 15 織豊政権と江戸幕府』(2002)で
この法令の第一条では、加納市場に住む者は信長の分国を自由に通行してよい。借銭・借米の返済を免除する、屋敷地の年貢(地子)。諸役なども免除する。譜代相伝の下人であってもここに住む者に主人が手出ししてはならない、とうたっている。商人の移住を促す法令である。
と書いてるけれど「屋敷地の年貢(地子)。諸役なども免除する」だけが異質なことに違和感を持たないのだろうか?
ここでいう「地子・諸役」もまた俗世間における未払い債務のことであるのは疑いない。そして、そういう論理であるからには、加納楽市場に居住する住民に外部の者が新たに「住民税」を課すことができないのも当然の理屈であり、制札にはそれ以上のことが書いてあるので、あえてそれを書く必要がないのである。
これも普通に読めばそう解釈するしかないのに、楽市楽座税に対する先入観があるから、通説はもとより、その通説を批判する安野氏でさえ、そういうことを読み取れないのであろう。また「縁切りの原理」を前提とする勝俣氏でさえ、それを理解できてないように思われるである。