楽地楽座とは何だったのか?(その15)

話が少しずれるけど新しい情報を仕入れたので。


加納楽市場が「御園」にあったという説について。
岐阜観光コンベンション協会|織田信長と岐阜 10.信長の楽市楽座令


『岐阜志略』に

岐阜惣構の内は内町といひ構の外を外町といふ南口は御園にて市立(今は加納領内也)西口は岩倉町にて市立(今は川を隔る地方なり)右貳ヶ所に市神とて今榎あり北口は中河原にて市立(爰にも市神の榎ありしか天文年中の洪水に流る)

近代デジタルライブラリー - 岐阜志略
とある。このうちの「御園」が「加納」にあることから、「加納楽市場」とはこの「御園」のことだということだそうだ。また、この「御園」が浄泉坊(円徳寺)があったとされる場所から離れているので、円徳寺とは何の関係もないということらしい。


安野眞幸氏はそれに対して

一、「御園」は清須の御園町の商人が作った町である可能性が強いこと。
二、「御園」と「加納」の地名の違いを無視していること。
三、小島説が成立するなら、「岩倉」や「中河原」にも楽市場があったとなるが、その点への論及がないこと。
四、制札Ⅰが美濃征服直後の軍事的緊張下に出されたことへの言及がないこと、等々

CiNii 論文 - 加納楽市令
という疑問点を示している。


しかし何といっても俺が疑問に思うのは、楽市場が「御園」にあったとするなら、その制札を円徳寺が所蔵している理由が謎になってしまうということ。


榎のある場所には樫森神社という神社があって祭神は市隼雄命。まさに「市の神」というにふさわしい。だからここに市が立ったというのは確かだろう。しかし、それなら楽市令の制札は樫森神社に所蔵されているのが自然というものである。何で関係ないはずの円徳寺が所蔵しているのか?全く理解不能である。



ところで、俺が気になるのは「市立(市を立てる)」という言葉および榎があるということ。俺がそれで連想する「市」と、寺内町にある「市場」とには、大きな違いがあるのだ。


前者の「市」というのは、ちょうど今日「ふるさと再生 日本の昔ばなし」で「笠地蔵」をやっていたのだが、

ある雪深い地方に、ひどく貧しい老夫婦が住んでいた。年の瀬がせまっても、新年を迎えるためのモチすら買うことのできない状況だった。 そこでおじいさんは、自家製の笠を売りに町へ出かけるが、笠はひとつも売れなかった。吹雪いてくる気配がしてきたため、おじいさんは笠を売ることをあきらめ帰路につく。

笠地蔵 - Wikipedia
というように、百姓が町に笠などを売りに行き、代わりにモチなどを買って帰る、みたいな感じの取引をする「市」を連想するのだ。なお今日やってたバージョンだと男が「おかせだま」というものを売りにいったが売れず笠と交換したという話になっており、貨幣が介在するにしても「物々交換」的な要素が高い。現代日本ではあまり見かけなくなったけれど、テレビで外国の人の暮らしを紹介していると、市場に行って商品を売って代わりに必要な物を買って帰るというのはよく見かける光景。「御園」の市にはそういうのを連想するのだ。


一方、「寺内町」の市場とは、市場に売りに行くのではなくて、そこに定住する商工業者がいて、そこで原材料は外部から仕入れるにしても、それをを製造・加工して商品にして販売するイメージがあるのだ。 楽市令の「当市場越居之者」というのは楽市場の定住者を指していると思う。


いやあくまでイメージなんだけど…



なお『岐阜志略』は「岐阜」という言葉を使っているけれども、

北口は中河原にて市立(爰にも市神の榎ありしか天文年中の洪水に流る)

天文年間(1532年-1555)のことを記している。つまり信長以前のことを記している(「岐阜」は信長以前から使われていたという説もあるけれど、俺は使われていたのは現在の岐阜城周辺のことではないと思う)。信長時代にも「御園」「岩倉」「中河原」に市があったという保証はないだろう。


※また「岐阜」と同じく「御園」等がその当時の地名だという保証もないので、安野氏の批判(一と二)にも多少問題があるように思われる。