楽地楽座とは何だったのか?(その12)

ここから先どのように書いていけばいいか悩む。楽市楽座については結論からいえば単純な話だと思う。しかし何かを書こうとすれば、そこに「従来の研究」と「近年の研究」の両方が立ちはだかる。それについて書くにはそれとは別の論点についても論じなければならない。しかしそれを論じるとそこにも「従来の研究」と「近年の研究」の両方が立ちはだかるという具合に立ち往生してしまうのだ。


とりあえず散漫になってしまうけれど、少しずつ解きほぐしていかなければならない。


まず、勝俣鎮夫氏の主張から。俺は勝俣氏の主張にほぼ同意する。ただし不十分なところはあると思う(もっとも俺が今見てるのは『岐阜市史』だから、基本的に加納楽市場のことしか論じられていないので不十分だと思うのはそのせいかもしれないが)。で、それは後回しにして『岐阜市史』の勝俣氏の主張における不審点。

これに対し、第一条は「当市場起居之者」、すなわち加納楽市場への来住者に対する保護規定であり、そこに稲葉山城攻略の戦火によって荒廃した楽市場の復興の意図がもりこまれているのであるが、とうぜんのことながら、この来住者に対する保護規定の前提には、楽市場住人がそれまで保持してきた特権が存在したのである。

この稲葉山城攻略の戦火によって荒廃した楽市場の復興の意図」というのが、俺は疑問に思うのである。


これと同様のことは

稲葉山城攻防戦で市場の人が離散したので、市場への移住者を増やすための措置である。市の日に商人が集まることも意図しているであろう。

織田信長』 (池上裕子)2012

信長はこれとは別に、岐阜城下の村落へ、平和保障と百姓の帰住を呼びかける制札も出しており、これらはともに、稲葉山合戦を避けた人々の帰村や、市場への移住奨励による戦後復興策として評価できる。

『信長研究の最前線』(日本史史料研究会編)2014

とある(なお『最前線』の方は勝俣氏の主張を否定し、加納楽市場は円徳寺と関係がないとする立場のはず)。


永禄10年の制札で該当する部分は 「当市場越居之者分国往還不可有煩」


勝俣氏が述べるようにこれは「楽市場住人がそれまで保持してきた特権」であろう。勝俣氏の場合はそれを踏まえた上で、信長は戦後復興の意図があって、その特権を保証したのだろうという話だけれど、他の人の場合はそこが省略されている。単に省略しただけなのか、それを否定しているのか。『最前線』の場合はおそらく後者だろう。


で、これは信長が稲葉山城を攻略して間もなく出された制札だから「戦後復興」なのだということなのだろうけれど、必ずしもそうとは限らない。別の考え方もあろう。


その特権があることは市場の人々が主張したことではあるだろうが、それが実際に機能していたとは限らないではないか。斎藤氏の時代にその特権が蹂躙されていた可能性は十分にある。


新しく美濃の支配者になった信長が「善政」として、前の支配者の斎藤氏とは違って、その特権をきちんと守ると約束したという話かもしれないではないか。この場合は「戦後復興」が目的なのではなくて、信長が美濃の支配者として相応しい名君だということをアピールするのが目的となろう。


※ なおその「特権」が、理想としては存在していても、一度としてその権利を十分に守られたことがないという可能性だってある。その場合、信長は楽市場を「あるべき姿」に戻そうとしたということになり、「復興」というよりも「復古」と呼ぶべきものだったかもしれない(「復古」とは昔の状態に戻すことだけど、その昔の状態というのが理念的なものだということはよくあること)。


なお『信長研究の最前線』は

信長はこれとは別に、岐阜城下の村落へ、平和保障と百姓の帰住を呼びかける制札も出しており

と書いているけれど、これは何だろうか?『信長文書の研究』でそれに該当しそうなのは、永禄10年9月の

右当郷百姓等、可罷帰候、然上者伐採竹木、猥作毛刈取、於令狼藉者、可成敗也、仍下知如件、

のみである。この制札の宛名は「北加納」であり『美濃円徳寺制札』とあるから、「岐阜城下の村落」というのは、実は加納楽市場のあった場所と重なるのである。しかも楽市楽座令と同じく円徳寺が所蔵しているものと思われる。もっとも『最前線』は楽市楽座令と円徳寺は無関係という立場らしいから、「岐阜城下の村落」などと書いているのだろうが、普通に考えて両者は繋がっていると考えるべきではないだろうか。


ところで、そもそもこの制札は「平和保障と百姓の帰住を呼びかける制札」ではない。これとは別の制札があるのだろうか?


そしてこの制札の目的は「伐採竹木、猥作毛刈取」を止めさせることであろう。『信長文書の研究』では

戦乱のあとであるから農民に還住をめいじた。帰住した農民の、竹木を伐採したり、かってに稲を刈りとるなどの狼藉をした者は、処罰するとの禁札令である。

としている。ちょっと解釈が難しいのだが「農民の所有する竹木や稲」という意味であろうか?農民がいなくなった土地で勝手に伐採をしたり、刈取りをしていた者がいたが、農民が帰ってくるのだからもうやめろという意味か?


しかし、俺が思うに『信長文書の研究』永禄10年には他にも竹木伐採を禁じた文書が複数ある。

「美濃多芸荘椿井郷宛禁制写」
当郷之儀、依為太神宮領、伊勢寺相構之旨、(略)其他伐採竹木等非分族申懸之事、一切令停止事、(略)
永録十年九月日

「美濃崇福寺宛禁制」
当寺并門前可為如前々、猥伐採竹木、(略)
永禄十 九月日

「美濃千手堂宛禁制」
一、伐採竹木、猥立毛刈事、
永禄十年九月 日

これらは皆、寺社の竹木伐採を禁止したものだ。であるなら「北加納」宛の禁制も同じであろう。「北加納」は寺社領に相当する土地であり、そこの竹木伐採を禁じたのだ。誰に禁じたかと言えば百姓にであり、「可罷帰候」とは帰村しろという意味であるのは確かだけれども、「北加納の百姓は帰って来い」という意味ではなく全く逆の「百姓は北加納から出て行け」という意味だと思われる。


それでは「北加納」は無人になってしまうではないかということになるけれども、おそらくはそうではない。ここで「百姓」とは何かという問題が出てくるのかもしれない。

この寺内町は特定された場であって、当時自治都市として存在していた大和の今井の称念寺寺内は土塁と壕でかこまれていた。そして、初期真宗をささえていた遍歴する山の民・川の民などの非農業民がここに定住し、町場を形成する
(『岐阜市史』)

この「初期真宗をささえていた遍歴する山の民・川の民などの非農業民」は「百姓」に該当するのかという問題が出てきそうだ。そこまで考える必要はなくて、「北加納」にあったっと思われる寺内町の住人は除く「百姓」という意味かもしれないけど。


※ なお寺内町にいたであろう木竹工業者にとって竹木は無くてはならないものであり、勝手に伐採されては困るという事情を考慮すべきだろう。


何はともあれ、この制札の「北加納」とは、楽市楽座令の「加納」と重なりあう土地の可能性は非常に高いと思われる。


なお、もう一つ、

「美濃棚橋氏宛判物写」
北加納事、伐採竹木、乱妨狼藉一切令停止候、諸事如先規可被申付事専候、恐々謹言、
九月十日

という信長文書がある。これは明らかに先の「北加納」宛制札と連動するものであり、この美濃棚橋氏というのが何者なのか非常に気になるのだが、詳細不明。


(つづく)