楽地楽座とは何だったのか?(その11)

制札の宛先である「楽市場」「加納」は円徳寺(浄泉坊)と「何ら本質的な関係はない」どころか、むしろ切り離すことのできない密接な関係にある


これはもう確実でしょう。「近年の研究」はその逆の方に進んでいるみたいだけど…


「楽市場」と「加納」は同一空間にあるので以後「加納楽市場」と書く。この加納楽市場は円徳寺と密接な関係を持っており、それを寺内町としているものが多い。寺内町とは辞書によれば

戦国時代、浄土真宗本願寺派などの寺院の境内に発達した集落。周りに土居を巡らし、濠 (ほり) を掘って他宗派や領主の攻撃に備えた。大坂の石山本願寺、越前の吉崎などが有名。

じないちょう【寺内町】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
という意味だそうだ。俺は全く詳しくないんだけど。


それはともかく、寺社と市場が関係を持っていることは、伊勢神宮おかげ横丁とか、浅草寺仲見世だとか、とげぬき地蔵高岩寺)と「おばあちゃんの原宿」こと巣鴨地蔵通商店街とか、柴又帝釈天と「とらや」とか、現在でもごくありふれたこと。


寺社があれば仏具・神具の需要があるから職人が集まる。中世なら武装してたから武具の需要もあるだろうし、日用品も必要。そして参拝者がやってくるからそっちの需要も当然ある。寺社の門前に市場ができるのは必然であろう。寺社が聖なる場所であり云々といったことも言えるかもしれないけれど、人が集まり需要があれば、たとえば駅や大学があればそこに商店街ができるわけで、そこまで考える必要はないと思われ。ただし無関係というわけでもないと思われ。


で、このように考えたらこの「加納楽市場」は信長が何もないところから作ったものではないということになる。元から市場があったのだ。しかも永禄10年の制札の宛名は「楽市場」だから、信長が楽市場に制定したわけではなくて、元から楽市場だったということになる。


これは勝俣鎮夫氏の主張。加納楽市場が浄泉坊の寺内町だとしたら ほぼ必然的にそうなるだろう。この場合、楽市場は信長の独創ではない云々というようなレベルの話ではない。そもそも楽市場は武家が作り上げたものではなくて元からあったのだから。


もちろんこれは「加納楽市場が浄泉坊の寺内町だとしたら」の話である。そして「近年の研究」ではどうやらそれを否定しているらしい。そうなると全く違った話になってくる。


「加納楽市場が浄泉坊の寺内町」なのか否かは、楽市楽座研究の分岐点であり、そのどちらを採用するかで話は全く違ったものとなってしまう


で、俺は「加納楽市場が浄泉坊の寺内町」説を採用するので、採用しない「近年の研究」とは全く話が咬み合わなくなってくるのであった。


(つづく)