楽地楽座とは何だったのか?(その21)

ここで少し戻って御園が「加納楽市場」ではない理由を別角度から。


『岐阜志略』より

岐阜惣構の内は内町といひ構の外を外町といふ南口は御園にて市立(今は加納領内也)西口は岩倉町にて市立(今は川を隔る地方なり)右貳ヶ所に市神とて今榎あり北口は中河原にて市立(爰にも市神の榎ありしか天文年中の洪水に流る)

近代デジタルライブラリー - 岐阜志略


岐阜は「惣構」によって内と外に分けられているという。そして御園は南口、岩倉は西口、中河原は北口だという。


つまり内と外との境界に市が立ったということだ。これは市場というものを考えたときに、当然のことであろうと思われる。

市が立つ場については近年研究が進み、河原や川の中洲、海辺の浜、坂の途中などに市が立ったことがわかってきました。これらの場所は川と陸の境、海と陸の境、そして山と平地の境であり、いずれも「境界領域」ととらえることができると思います。古代に遡ると、椿・栃などの大きな木の下にも市が立っていたという例が知られています。これも天と地との境と考えられます。
『歴史を考えるヒント』(網野善彦

御園・岩倉・中河原は内と外との境界であり、そこには榎が植えられていた。そのものズバリである。また「中河原」が河原であることも見逃せない。「岩倉」も「磐座」で聖域であったことを連想させる。「御園」にちてはちょっとわからないけれど「神社所有の荘園」を意味することからそれなりに聖域であろう。安野真幸氏は「清洲の御園町の商人が作った町である可能性が強い」というけれど、俺はむしろ「御園」という名前の土地に市が立ちやすい理由があって、清洲の場合もそうなのだろうと思う。


なお、俺が思うに「イチ」という言葉からして「人と神が交わる」という意味ああるように思われ、これも人と神の「境界」であろう。

イチは一方に神に仕える女性を意味すると共に、九州などでは亦単に稚児といふ義にも用ゐられて居た。
(『柳田國男全集11』筑摩書房

柳田によれば神和ぎ系巫女は、関東ではミコ、京阪ではイチコといい、口寄せ系巫女は京阪ではミコ、東京近辺ではイチコ アズサミコという。
巫女 - Wikipedia


それはともかく「市」は境界に立つものである。御園が南口だというのは、そこに惣構があったからだ。


岐阜城の惣構は斎藤道三が作ったと言われている。ただし信長が作ったという説もある。


ところで
岐阜城の空間認知 : 文献・絵図・考古資料を用いて
に添付されている「図5 岐阜城縄張り図(1)林春樹氏作成(林1992)」を見ると、「内惣構」の外側に「外惣構」がある


「御園」は「外惣構」の南口に当たる


で、俺はこの「外惣構」こそが斎藤道三が作った惣構なのではないかと思う。なぜならその「外惣構」の内側に瑞龍寺が入っているからだ。
瑞龍寺 (岐阜市) - Wikipedia


また、この「外惣構」に沿った内側に美江寺がある。

現在地に移転したのは1549年(天文8年)、斎藤道三稲葉山城の築城時ともいい、織田信長が移転させたという説もある。稲葉山城の南西に位置し、裏鬼門を守護するという。

美江寺 - Wikipedia


また、先の『岐阜志略』には天文年中のことが書いてあるので、「御園」は斎藤氏時代の「南口」だったと考えられる。


そして信長時代の岐阜城の南口は白木町だと考えられる。

白木町. 金華:織田信長の時代に岐阜の南口として建設

岐阜城下町の空間構造と材木町
白木町は伊奈波神社から参道を下ったところにあり、ここが「内惣構」と外部との境界になっている


おそらくは、この「内惣構」こそが信長が作ったものであり、「美園町」は岐阜城下町の外側にある。信長の新しい城下町の空間認識としては「御園」は境界ではなくて郊外であろう。というか『戦国・織豊期の都市と地域』(小島道裕)を日曜日に図書館で借りてきて今見ているところなんだけれど、そこに載る地図でも「御園」は岐阜城惣構のかなり外側にある。


小島氏は一般的な戦国期城下町の市場は惣構から離れて存在することをもって、「御園」が楽市場だったとしたいようだけれども、「御園」は「外惣構」の内側にあり、そこが、おそらくは斎藤氏時代の城下町の「南口」だったのだ。


したがって、「御園」に市が立ったという『岐阜志略』の記述は事実であろうが、それはそこが南口であったが故のことであり、南口が「白木町」に移動したとしたら、果たして「御園」に市が立っただろうかと極めて疑問に思うのである。


もちろん「加納楽市場」もそのような「境界領域」であったことは間違いないと思うけれども、岐阜城下町とは特に強い関係はなかったと思う。