楽市楽座とは何だったのか?(その9)

岐阜市にある円徳寺が所蔵する楽市楽座礼のうち、永禄10年(1567)に出されたものの宛先は「楽市場」。永禄11年(1568)のものの宛先は「加納」

これら二枚の制札は、ともに岐阜市内にある真宗寺院円徳寺の所蔵で、これまでは両制札の宛先の因果関係と、市場がどこに開かれていたかが問題とされた。だが近年の研究で、両宛先は同一の空間をさし、信長以前から岐阜郊外の「加納」に開かれていた「楽市場」(加納市場)を、信長が在地の要求をうけて保護したものと考えられている。

『信長研究の最前線』(日本史史料研究会編 2014年)

とあるから「楽市場」と「加納」が同じ空間を指すのか、違う空間を指すのかの議論があったのだろう。それが「近年の研究」で同一空間ということになった。「近年の研究」は『戦国・織豊期の都市と地域』(小島道裕 2005年)のことだと思われ、だとすると正に近年ではある。


「楽市場」と「加納」が違う空間だったとしたら、信長は美濃で最低2箇所に楽市楽座礼を出したことになるわけで、

信長は美濃国の市場を楽市にした。そのうちで加納に建てた制札がこれである。

織田信長文書の研究 上巻』(奥野高広 1969)

と信長が複数出した楽市楽座令のうちの二つが現存しているということになるだろう。かつては二つは別物だということを根拠として、そういう考えがあったのかもしれない。


しかし、勝俣鎮夫氏はこれを同一空間として扱っている(『岐阜市史』1980)。その頃から既に同一空間説の方が有力になっていたのではないかと思われる。このあたりの研究史はもっと調べてみなければならない。


もちろん二つの制札が同一空間だったとしても、それをもって美濃における楽市楽座令は「加納」だけということにはならないが、そのへんは当然考えなければならない問題であろう。しかし今までに見てきて論考にそういうことを論じたものは一つもなかった。


不思議なことだ。


ところで、「楽市場」と「加納」が同一区間だとすれば、その市場があったのは、現在、円徳寺(浄泉坊)の寺内町だと考えられている。
※円徳寺(浄泉坊)は寺伝によれば近世初頭に現在地に移転。


制札には「楽市場」または「加納」としか書かれてないが、なぜ円徳寺(浄泉坊)の寺内町とされているのかといえば、円徳寺が制札を所蔵しているからだろう。それは自然なことだ。
(二つを異なる空間とした場合はその点をどういうふうに考えていたのだろうか?これも気になるところ)


なおここでまた恥をさらすが、俺は「寺内町」という言葉を知らなかった。岐阜市に「寺内町」という地名が現在または過去にあるのかと思った。「寺内町」についてはまた後で書くけれど、それはともかく「寺内町」の意味がわからなくても「寺内町」とあって、制札を円徳寺が所蔵しているとあれば、この市場は円徳寺(浄泉坊)と密接な関わりがあると考えるのが自然だろう。


で、そのことが何を意味するかということが非常に重要だろう。もちろん勝俣鎮夫氏の研究があるのだけれど、そこからさらにもっと別の視点が必要だと思うのだが、今まで見た限りではそこのところがあまり関心が持たれていないように思うのである。


これもまた不思議なところ。


(つづく)