楽市楽座とは何だったのか?(その8)

信長が楽市楽座令を発した美濃の「加納」について、何と説明しているのか。

これら二枚の制札は、ともに岐阜市内にある真宗寺院円徳寺の所蔵で、これまでは両制札の宛先の因果関係と、市場がどこに開かれていたかが問題とされた。だが近年の研究で、両宛先は同一の空間をさし、信長以前から岐阜郊外の「加納」に開かれていた「楽市場」(加納市場)を、信長が在地の要求をうけて保護したものと考えられている。

『信長研究の最前線』(日本史史料研究会編 2014年)

この「近年の研究」というのは小島道裕氏の研究らしい。『戦国・織豊期の都市と地域』(小島道裕 2005年)。未読。

永禄十年(一五六七)八月、信長はようやく稲葉山城を攻略し、その名を岐阜城を改めて入城した。そしてその十月に、岐阜郊外の加納に楽市令の制札を掲げる。
(中略)
永禄十年の段階では、加納の地は、まだ住民組織のない、いわば「名無し」の市場にすぎなかった。そのため制札も住民たちの目にずっと晒しておく必要があった。それが翌年は町の編成が進み、「加納」という住民組織として信長に認められるようになったわけである。
このようにして小島氏は、(以下略)
『信長の政略』(谷口克広 2013年)

このうち加納に発したものは、むかしから信長の新しい施策として評価されてきたが、近年の研究では、それに対して疑問が提示されている。加納は以前より真宗寺院の寺内町として発達してきたところである。寺内町は、機内や北陸に多いが、そこではだいたい自由な商業活動が行われていた。信長は、すでにあった楽市を安堵したにすぎないというのである。信長の楽市令の宛名は「楽市場」になっているから、その指摘は正しいとせねばなるまい。
『信長・秀吉と家臣たち』(谷口克広 2011)

「正しいとせねばなるまい」とあるけど、上の『信長の政略(2013)』は違うことを言ってるのではないか?ここでいいう「近年の研究」とは勝俣鎮夫氏の研究のことだと思われ、だとすると「近年」は1977年ということになる…

稲葉山城を攻略して間もない永禄十年十月十日付で「楽市場」宛に出した三カ条の制札が信長の楽市令の最初である。これは檜板に記されて市場に高札のように立てられていた(円蔵寺所蔵)。翌年の楽市令と同じく、稲葉山城の城下町からやや離れた加納の市場に出されたものとみられる。

織田信長』(池上裕子 2012)

信長は最初の楽市楽座令を岐阜の城下町からやや離れた加納市場に出した。
(中略)
以上から、この楽市楽座令は美濃の取り合いで戦災をこうむり衰微した市場を復興させる狙いで出された、市場復興策といってよい。それがこの町の復興をはかろうとする商人の願いであった。

講談社 日本の歴史 15 織豊政権江戸幕府』(池上裕子 2002)

池上裕子氏はどちらでも「城下町からやや離れた」という書き方をしている。ただ、それが意味するものを少なくとも積極的には説明していない。

たとえば一五六七年(永禄十)十月に美濃・加納寺内の楽市場、また六八年九月に美濃・加納に宛てて制札をくだしたが、
(中略)
前者は楽市場と記されているから、おそらく既存の楽市場の特権をあたえたと考えられており、(中略)
これらは岐阜の城下町経営と関連があると見られるが、(以下略)

織田信長―中世最後の覇者』(脇田修 1987)

岐阜の城下町経営と関連があると見られる」と書いている。


本当はもっと調べるべきかもしれないけれど、これらを見て思うのは、研究者が「加納」という土地そのものにはさほど関心を持っていないということだ。


それはおそらく

信長は美濃国の市場を楽市にした。そのうちで加納に建てた制札がこれである。
織田信長文書の研究 上巻』(奥野高広 1969)

とあるように加納の楽市楽座令は美濃に出された楽市楽座令の一つにすぎないと考えているからではないだろうか?いや、奥野氏がこれを書いたのは1969年と古く、見た限りではそういう趣旨のことを書いているものは見つからないのだけれども、しかしこうして「加納」という土地への関心の無さを見てくるとそういうことではないかと思えてくる。


ただし、そこに注目した研究者もいた。勝俣鎮夫氏だ。「近年」勝俣氏の説は批判されているみたいだけれど、勝俣氏の主張の是非はともかく氏が「加納」という土地に注目したことだけは確かだ。ただし氏の説は大いに注目されはしたが、それは結論部分が注目されただけで「加納」という土地に着目しようという流れはあまりないのではないかと、上に紹介した諸本などを見ていると思えてくる。それじゃだめでしょう。


(つづく)