楽市楽座とは何だったのか?(その7)

「信長が楽市楽座令を出したのは岐阜の城下町ではない」


これを知って俺の楽市楽座令に対する俺の認識は一瞬にして変わってしまった。基本的にはこれだけで十分だと言えるが、さらに調べれば調べるほどその認識は確実なものとなっていく。


しかし不思議なのは、こんなことは研究者なら当然知っているはずなのに、なぜこの重要な事実を一般人に教えようとしないのか?


さらに不思議なのは、それを知っているにも関わらずなぜ「城下町の繁栄を目的とした」などと(少なくとも「従来の説」では)説明するのだろうか?


明らかにおかしいではないか。


もちろん、信長は楽市楽座令を安土城下に出しており、こっちは「城下町の繁栄を目的とした」ということで基本的に間違いはない。しかし「加納」は違うではないか。


推測するに「信長が美濃を攻略した→楽市楽座令を出した」ということの因果関係を考えたとき、これは「市場振興策策だろう」という推理をするのは、まあ自然なことではある。で、「加納」がどこにあるにしても美濃にあるのだからそれに間違いないということになったのだろう。


で、このあたりがまだ調査不足なんだけれど「加納」がどこにあるかということはあまり考慮されてなかったのではないだろうか?現在の岐阜市に「加納」という地名があり、その制札が円徳寺に保存されているのだから、正確には岐阜城下ではないものの、おおまかにいえば岐阜城下といって間違いではないだろうというような。


楽市楽座研究の最初の頃はそんな感じだったのではなかろうか?しかし、研究が進んでいけば、そんな大雑把なものではなく細部まで検討されていったはずだ。実際にそうなっている。


ところが、それでもなお「城下町の繁栄を目的とした」という説が引き継がれてきた。矛盾を感じなかったのだろうか?ものすごく不思議だ。


そして、近年の研究では「大きく見直されつつある」と言いながら、「信長が楽市楽座令を出したのは岐阜の城下町ではない」という極めて基本的なことを説明しない。


『信長研究の最前線』では

すなわち楽市楽座令は、そのすべてが同一の目的に向けて施行されたわけではなく、それぞれの法令が出された時期や地域ごとの課題に即したものだったのである。

と書かれている。これはまあその通りだと思う。しかしその「時期や地域ごとの課題」について「近年の研究」は大事なことを見落としているのではないか?だから「信長が楽市楽座令を出したのは岐阜の城下町ではない」ということの重大さを理解していないのではないか?


ここんところがどうしても気になるのだ。「信長が楽市楽座令を出したのは岐阜の城下町ではない」ということから導き出された俺の楽市楽座令に対する認識は、そんなに難しいものではない。普通に誰だって気付くはずのことだと思う。ところがどうやらそうでもないらしい。そこが非常に不思議なのだ。結局のところ「近年の研究」も「従来の研究」の影響下にあってそこから抜け出せず、先入観に縛られているのではないか?



で、これから「楽市楽座とは何だったのか」についての俺の考えを書く予定だが、結論から言えば非常に単純な話である。そして結局のところ「(少なくとも楽市楽座に関して)信長は革命児だった」ということになる。


ただし、既に書いたように、俺が今まで持っていた「楽市楽座」の認識は変化している。信長が「加納」に出した楽市楽座令は革命的な政策などでは全く無い。しかしそこからさらに考察すれば、信長は革命児だったということになる。結論から言えばすごく単純な話だけれど、楽市楽座に対して(研究者を含む)多くの人々が持っている先入観を解きほぐしながら説明すると結構複雑な話になってしまうのである。


(つづく)