楽地楽座とは何だったのか?(その13)

正直驚くべきことだらけである。

右当郷百姓等、可罷帰候、然上者伐採竹木、猥作毛刈取、於令狼藉者、可成敗也、仍下知如件、

信長はこれとは別に、岐阜城下の村落へ、平和保障と百姓の帰住を呼びかける制札も出しており
(『信長研究の最前線』)

などと解釈するなんておよそありえないことだ。これは「北加納の百姓の竹木を伐採すること」を禁じたのではなく「北加納で百姓が竹木を伐採すること」を禁じたものなのは明白だ。他の禁制が全て寺社領の竹木伐採を禁じているのなのだから当然だろう。これだけが例外なんてことはないでしょう。これは北加納に百姓が帰村することを呼びかけたのではなく北加納から百姓を追い出して自己の所属する村に帰ることを命じたものだ。そしてこれは「北加納」が寺社と同じ扱いを受けているということであり、北加納が宗教的な土地である可能性が非常に高い。


なぜこんな曲解をしたのかといえば、信長の戦後復興政策という先入観のせいだろう。まあこれも「戦後復興作」で百姓が戦災を逃れて「聖域」に逃げ込んでいたのを帰させる政策だと解釈することは可能(そうではないかもしれない)だけど、とにかく、そういう方向での解釈の道を閉ざしてしまったのだ。


同じことは楽市楽座令についてもいえる。永禄十年の「楽市場」宛制札の第一条に

一 当市場越居之者、分国往還不可有頂、井借銭・借米・地子・諸役令免許訖。難為譜代相伝之者、不可有達乱之事。

とある。これを奥野高広氏は

加納市場に移住する者は、信長の分国(領地)の往来の自由を保証する。並に借銭・借米・地子(借地料)・諸役(いろいろの負担)は免除した。織田家などの譜代の家臣でも非法をしてはならない。

と解釈した(『織田信長文書の研究』)。さらに

市場ではここに座席をもつ商人でなければ販売することができない。その市場の建設は領主であり、市場税を徴収していたからである。これでは伸びていく市場を制約することになる。そこで市場税を撤廃して市場への出入を自由に認めるようになった。(以下略)

と解説している。しかしながら、「当市場越居之者」とは「加納市場に移住する者」ではなくて「移住した者」であろう。また「譜代相伝之者」とは「織田家などの譜代の家臣」ではなくて「代々主人に仕えてきた使用人」という意味であろう。


池上裕子氏は『講談社 日本の歴史 15 織豊政権江戸幕府』(2002)で

この法令の第一条では、加納市場に住む者は信長の分国を自由に通行してよい。借銭・借米の返済を免除する、屋敷地の年貢(地子)。諸役なども免除する。譜代相伝の下人であってもここに住む者に主人が手出ししてはならない、とうたっている。商人の移住を促す法令である。

と解説している。「加納市場に住む者」「譜代相伝の下人」とあり、俺の解釈と一致している。ただし、それを「商人の移住を促す法令」とするのは納得いかない。この条文からはそんな意図は読み取れないのだ。これは「楽市楽座」の研究史において作られた先入観によるものだろう。


これは既に加納楽市場に居住する者の権利保証であって、それ以上の意図はないのだ。


そもそも信長には加納楽市場を発展させようなどと言う意図は全く無かったのだ。むしろ信長の目指す方向は全く逆のものだったのだ。


信長が加納楽市場の特権を認めたのは例外的な措置なのだ。