秀吉が信長を呼び捨てにした件について

秀吉、信長を呼び捨て 公開の書状で権威誇る (神戸新聞NEXT) - Yahoo!ニュース

主君だった信長を呼び捨てにし、自らの権勢を厳格に示した。


これについては

という意見がある。


確かに神戸新聞の記事を見るとそのような印象があるけれど、毎日新聞毎日放送の記事を見ると

 同年の別の文書では追放を命じた家臣をかくまわないよう指示。「自分は甘くない」という趣旨の文では「信長の時の如(ごと)く」と、かつての主君の織田信長に「公」を付けず呼び捨てにしていた。関白となった時期で、格上になった当時の思いが反映されている可能性があるという。

<豊臣秀吉>書状33通発見 重臣に指示や叱責  (毎日新聞) - Yahoo!ニュース

また主君だった信長についても書かれていて生前は「信長公」と敬称付けで表記されていたものが天下人に近づくこの時期、「信長」とすでに呼び捨てにされています。

豊臣秀吉の書状“細かで執拗な性格”示す (毎日放送) - Yahoo!ニュース



すなわち、ここで重要なのは「信長公」から「信長」への変化の意味であろうと思われる。


記事にあるように秀吉が信長より格上になったから「信長公」の「公」が取れたのだろうか?それが問題だ。俺はこれはもっと考えてみる必要があるように思う。


それを考える上で重要なポイントは、そもそもなぜ信長は「信長公」と呼ばれていたのか?ということではなかろうか。


「公」とは何か?

周の最高位にある3人の大臣が三公と呼ばれたことから、公は大臣の尊称としても用いられるようになった。公卿は三位以上及び参議に任ぜられた人への敬称とである卿と組み合わせた言葉であり、また公家という呼び名の元になっている。後には身分の高い人や年配の人に対して広く用いられる尊称となった。今では廃れたが店の主人をさして「主人公」と呼ぶ用法があった。

奈良時代から平安時代前期には、藤原不比等(文忠公、淡海公)、藤原基経(昭宣公、越前公)といった九名の公卿に、諡号としての公が贈られている。平安時代以降、位階に関わらず自らの主君への尊称として名の下に公と付けて呼ぶ例が生まれ、江戸時代まで続いている。水戸藩では主君への諡に「公」を用いていた(徳川斉昭であれば「烈公」)。

公 - Wikipedia
秀吉にとって信長は主君だったから、また目上だったから「公」を付けてたけれども、自分が関白になったので「公」を取ったのだと単純に考えていいものだろうか?


俺が「公」で思い浮かべるのは「公儀」という言葉だ。
公儀 - Wikipedia


天正10年本能寺の変直後の6月4日付けで、秀吉が毛利輝元・元春・隆景に宛てた起請文(六月四日付)がある(『江系譜』)。

一、公議に対され、ご身上、お理りの儀、我等請け取り申し候条、聊か以て疎略に存ずべからざる事、

この「公儀」とは信長のことだと考えられており、既に信長が死んでいるのに秀吉は毛利方に信長の死を秘したのだと言われている。しかし俺は、信長が生きている時には信長が「公儀」だったのに違いないだろうけれども、信長が死んだからといって「公儀」が消えるわけではないと思ってる。したがって、毛利方は「公儀」を信長のことだと受け取っただろうし、秀吉も毛利がそう受け取るだろうと予想しただろうとは思うけれども、秀吉が「嘘」をついたのかといえば、そうはならないんだろうと思う。信長は「公儀」ではなくなったけれども「公儀」は生きているのだから。
秀吉「中国大返し」の謎(その10) - 国家鮟鱇


で、先の毎日放送の記事を見ると

生前は「信長公」と敬称付けで表記されていたものが

とある。「信長公」と「信長」の違いは、秀吉が関白になったことが理由と考えられているみたいだけれども、信長が死んで「公儀」ではなくなったからではないのだろうかと俺は推測するんですけどね。


ただし、「信長公」と書いてある秀吉文書や、秀吉以外が信長をどう呼んでいるかを検証してみる必要があることは言うまでもない。