⇒秀吉が信長を呼び捨てにした件について - 国家鮟鱇
のつづき。
毎日放送の記事で今は消えてるけれど
また主君だった信長についても書かれていて生前は「信長公」と敬称付けで表記されていたものが天下人に近づくこの時期、「信長」とすでに呼び捨てにされています。
と書いてあった。
生前に「信長公」と書いていたものが「信長」に変化した理由は何だろうと考えたわけだが、そもそもその生前に「信長公」と書いたものを調べる必要がある。
というわけで、『豊臣秀吉文書集 1』(吉川弘文館)を見たんだが
ないんだなこれが…
ざっと見ただけだから見落としがあるかもしれないが、多分無い。専門家の発言だと思って信用してたのに…
唯一見つけたのが天正10年6月15日付の「某宛廻文写」に
態申触廻文之事、今度明智日向守光秀構謀叛、去朔日之夜入、早西国在身寄之軍兵究竟之者共引率、信長公御座候御館、二日之卯刻押寄之処、(以下略)
とある。もちろん信長死後のこと。ただし注意書きがあって「この文書は検討を要する。」とある。ニセ文書じゃないにしても「写」が正確ではない可能性があるかもしれない。
上の記事は一体なんだったのだろう…
しかも「信長」呼び捨てにしても、そんなのいくらだってある。
ただし傾向があって、永禄・元亀・天正3年までは「信長」。天正4年から「上様」「右大将殿」などが登場。天正5年から天正10年6月の本能寺の変まで、1通を除いて「信長」表記は皆無。
※ その1通は「太田美濃入道宛書状写」で(天正10年)2月9日付け「去年正月26日の書状が今日届きました」という非常に不思議な手紙。大いに疑問。
で、本能寺の変の後しばらくは「上様」だけれども、早くも7月7日付徳川家康宛書状で「今度信長不慮之事」、7月11日付「長岡兵部大輔他宛起請文」で「今度信長御不慮ニ付而」とある。
何がきっかけだろうと考えるに、おそらくは6月27日の清洲会議で三法師が織田家の当主(上様)となったからではないか?と一応推測してみる。
少なくとも毎日新聞の記事にある
関白となった時期で、格上になった当時の思いが反映されている可能性があるという。
⇒<豊臣秀吉>書状33通発見 重臣に指示や叱責 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
などということではないと言い切れるのではないか。秀吉が関白になるより前に「信長」表記が使われているのだから。
これが新聞記者の聞き間違いではないのだとしたら、東京大史料編纂所の研究者がいるのにどうしてこんな見解を出したのか理解に苦しむ。