信長公(その2)

去年の末に楽市楽座について書いて、まだ続きがあるんだけれど、だんだん話が細部になっていくと、調べるのが大変になってきて、なかなか書けない。


で、その美濃加納の楽市楽座に関して重要な円徳寺の梵鐘なんだけれど、その銘文に「大檀那上総介平信長公」とある。


それに気づいたのがちょうど例の「信長」呼び捨て問題の時で、この「信長公」はどういう意味での「信長公」なのかと気になってしまった。まあ気にするほどのことではないのかもしれないんだけれど…


で、よくよく『織田信長文書の研究(補遺・索引)』を見てみれば、最後に「〈補注1〉」とある。今まで気にしてなかったのだが気になってしまったので見てみたら

「池ノ間第三区」と「同第四区」を省略『岐阜県史』史料編古代中世二)。これによると寛永十七年四月吉日の再鋳である。

とある。「池ノ間」ってなんじゃらほい?って検索したら「梵鐘の部分の名」だそうだ。


同時代の一次史料だと思ってたのに…


なおこの梵鐘は稲葉山城がいつ陥落したのかで永禄7年説と永禄10年説があり、永禄7年説の根拠の一つとなっているものでもある。現在は永禄10年説が有力。俺も同じ。


ただ梵鐘の銘文が元のものと同じものなのか等、ちと不安になる。


まあ、梵鐘を考慮はら外しても、禁制を円徳寺が所蔵していることその他を考えて、加納楽市が円徳寺(浄泉坊)の寺内町だという考えが変わるわけではないけれど。