征夷大将軍の解任

源頼家

頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手により暗殺された。

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藤原頼経

そのため、頼経と北条経時との関係が悪化し、寛元2年(1244年)経時により将軍職を嫡男の藤原頼嗣に譲らされる[1]。

吾妻鏡』では頼経の意志によるものと記されるが、状況から勘案して信じるに足らないとされる(石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』中公文庫,1974年,415頁)。

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藤原頼嗣

しかし建長3年(1251年)、了行法師らの謀叛事件に頼経が関係したとして、幕府は後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を新将軍とすることに決定。翌年、頼嗣は14歳で将軍職を解任され、母大宮殿とともに京へ追放された。

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宗尊親王

25歳となった文永3年(1266年)6月、正室の近衛宰子と僧・良基の密通事件を口実に謀叛の嫌疑をかけられ、執権・北条時宗らによる寄合で将軍の解任と京への送還が決定された。

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惟康親王

26歳となった正応2年(1289年)9月、北条氏が成人した将軍の長期在任を嫌い、後深草上皇の皇子である久明親王の就任を望んだことから、将軍を解任され京に戻された。

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久明親王

子の守邦親王に代わるまで特に業績もなく、延慶元年(1308年)8月に北条氏によって将軍を解任され、京に送還され出家した。

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守邦親王

北条高時が5月22日に自刃すると、同日に守邦親王は将軍職を辞して出家し、年内に鎌倉で薨去した。

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護良親王

しかし、尊氏のほか、父の後醍醐天皇やその寵姫阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のため兵を集め辻斬りを働いたりした。このため、征夷大将軍を解任され、

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成良親王

翌年の中先代の乱の際に帰京し、一時征夷大将軍となるが、短期間で停止されている。

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足利尊氏

足利尊氏は、南北朝の動乱の間に起きた観応の擾乱南朝後村上天皇に降参したため尊氏に擁立された北朝は廃されました。

1352年に尊氏は征夷大将軍を解任されています。

足利尊氏は征夷大将軍を解任されたことがあるらしいですが本当ですか?その後また... - Yahoo!知恵袋


以上、鎌倉将軍は頼朝と暗殺された実朝、最後の将軍守邦親王を除けば「解任」ということになる。


しかし、将軍を解任できるのは朝廷であって北条氏ではない。ウィキペディアの説明だとまるで北条氏が解任したかのうようだ。現代の歴史叙述は名目ではなく実質を重んじるからそれでいいのだろう。でも俺の関心からすれば名目上どのようにして解任したのかが重要なのだがそれがまるでわからない。現代でも実質解雇でも「会社都合退職」と「自己都合退職」は分ける必要があるし。



ちなみに「解官」とは

解官(げかん)とは、律令制において、現職の官人が解任されること。

解官の理由としては、

考解(こうげ)…勤務評定による成績が悪いことを理由として、懲戒処分として行われる。その年の俸禄は没収されるが、1年後には同じ官位で復職可能となる。
犯罪解(はんざいげ)…官人が徒刑・流刑に相当する罪を犯した場合の換刑や除名・免官等の処分を受けた場合。一定期間の後に規定によって官位を数等降格させた上で再叙任される。
以理解(いりげ)…考解・犯罪解にあたらないその他の理由による解任。

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