江戸後期の歴史書。22巻。頼山陽著。文政10年(1827)成立。天保7〜8年(1836〜37)ごろ刊。源平二氏以降徳川氏までの武家の興亡を、漢文体で記したもの。
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平安時代末期の源氏・平氏の争いから始まり、北条氏・楠氏・新田氏・足利氏・毛利氏・後北条氏・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏までの諸氏の歴史を、武家の興亡を中心に家系ごとに分割されて(列伝体)書かれている。
で、「外史」とは
がい‐し〔グワイ‐〕【外史】
1 朝廷の命などによらずに個人・民間の資格で書いた歴史書。野史。→正史
頼山陽が個人的に書いた歴史書だから「外史」。国語辞書的に見ればそれで問題ないように見える。ただ、昨日書いたが近代デジタルライブラリーにある『皇国の書』森清人 著 (東水社, 1941)という本には
天皇中心、詔勅中心の正史(この正史に対して頼山陽が武門の興亡を叙せる自著に日本外史と命名せるは卓見であるに徹して、はじめて八紘一宇の民族的大使命を知ることができる。
と書いてある。武門の興亡を書いているから「外史」だというのである。しかし、これはおかしいのではないか?
そう思って、調べていたら興味深いことが同じく近代デジタルライブラリーにある『随筆頼山陽』市島謙吉 著 (早稲田大学出版部, 1925)という本に載っている。
全体、日本外史の内容は、全然、覇史で、所謂将門傳である。随つて、日本外史の名は当らぬ、と猪飼敬所が非難したこともある。山陽は之に答へて、「いかにも尤ではあるが、既に楽翁公に献じた後であるから、如何ともする由がない」と言つた話が傳はつてゐるが、春風宛の手紙によつても、此事は夙に山陽自らも心附いてゐたので、一度は覇史の名を附けたのであるが、兎角、名称が気になつて、種々考へた末に、日本外史に定めたと見える。
とある。これを見れば、武門の興亡を書いているから「外史」の命名は相応しくないという話である。頼山陽もそれを認めたが、既に松平定信に献じてしまったのでどうにもならないと弁解しているのであった。