「淀君」が蔑称だという珍説(追記その3)

『絵本太閤記』の「淀殿」「淀君

勝家籠北庄城
此姉姫は後に秀吉公の妾秀頼の御母堂淀君と申せしは此御方也

佐々成政生害
此ころ天下の美人且秀才と時めきて秀吉公の御覚も他に勝りたる淀殿に見せばや此人いかに賢くとても此花の出所は知られまじと黒百合一種(略)

殿下被召利休之女
此頃政所は聚楽の城淀君の大坂に座しけるが兼て政所の御方淀の御方といつとなく党を結びし奥の女中三條殿加賀殿松の丸殿をはじめとし末々の婦女にいたる迄京と大坂に引別れ(略)

天正19年

朝鮮征伐之評議
同年夏四月秀吉公の張中第一の美人淀君の御腹に若君出生ましましける

絵本太閤記では天正19年出生同年死去とする(史実では天正17年出生)


正室北政所の方が明らかに上位だった頃は「淀殿」、(天正19年頃)北政所が上位ではあるがほぼ互角になったとみなした頃から「淀君」と呼んでると思われる。「三條殿・加賀殿・松の丸殿」の「殿」より上位という意味での「君」だろう。