秀吉皇胤説を疑え (その3)

秀吉皇胤説を疑え(その2)の続き。


豊臣秀吉自身が関与した秀吉の出自と考えられるものには、『関白任官記』と『戴恩記』の他に、『善隣国宝記』にある天正十八年の「朝鮮国王に与る書」がある。

「予托胎の時に当り慈母、日輪の懐中に入るを夢む。相士の曰く日光の及ぶ所、照臨せざるなし。壮年必ず八表に仁風を聞かせ、四海に威名を蒙らせんこと、それ何ぞ疑わんや」

豊臣秀吉(上)』山路愛山

それ以外を俺は知らない。他にあるのだろうか?


以上を考えるに、俺は秀吉自身は天皇落胤説を主張していないと思う。俺は確信しているけれど、それに異議があるにしても、少なくとも歴史学者が秀吉がそれを主張したと断定的に言うのは控えるべきだと思う。


ところで、秀吉皇胤説を論じる説をいくつか見たけれど、そこで全く触れられていないが、俺にはとても重要なことに思えることがある。


それは「関白任官記」の

大政所殿、幼年にして上洛有り、禁中の傍に宮仕えし給ふこと両三年、下国あり。程なく一子誕生す。

という記述だ。


ここに「幼年」とある。幼年とは一体何歳のことをいうのだろうか?


後の史料になるが、『真書太閤記』によると三歳のときに上洛したという。3歳で上洛して3年だとすれば6歳で懐妊したことになる(なおここでは23歳で弥助と結婚して長女を生み次に秀吉を生んだことになっている)。


6歳で懐妊はあんまりだから、その6歳で宮仕えしたとしても9歳だ。9歳だとすれば12歳でやっと現実味を少しだけ帯びてくる。だが『真書太閤記』その他に3歳とあるのにも、それなりの理由があるのだろうということは尊重しなければならない。


俺が思うに、秀吉自身の口から出た自身の出自における最大の荒唐無稽な部分はここである。


そしておそらくそれは意図的なものであろう。すなわち、自分はおよそ現実にはありえないような幼い女子の腹から生まれたと主張しているようにみえるのだ。それは秀吉が神童であることを示唆しているように思えるのだ。


その場合、もちろん、天皇が幼児に手を出したという意味など全く含んでいないと思われる。


(つづく)