「疑え」といったって、豊臣秀吉が本当は天皇の子ではないという意味ではない。秀吉が自身を天皇の子と主張したという説を疑うべきだということ。
そのことについては既に書いたが、さらに考察してみる。
⇒幻想の「秀吉ご落胤説」
⇒幻想の「秀吉ご落胤説」(その2)
まず小和田哲男氏は『豊臣秀吉』(中公新書)で『天正記』の「関白任官記」を取り上げる。
その素性を尋ねるに、祖父母は禁囲に侍す。萩の中納言と申すにや。今の大政所三歳の秋、或る人の讒言に依りて、遠流に処せられ、尾州飛保村雲と云ふ所に謫居を卜して春秋を送る。また、老者の物語に、村雲の在所にして、都人一首の詠あり。読人知らざるなり。
ながめやるみやこの月にむら雲のかゝるすまゐもうき世なりけり
かの中納言の歌にや。大政所殿、幼年にして上洛有り、禁中の傍に宮仕えし給ふこと両三年、下国あり。程なく一子誕生す。今の殿下これなり。孩子より奇怪のこと多し。如何様王氏に非ずんば、争か、この俊傑を得んや。
これについて小和田氏は、
つまり、秀吉の母大政所は、萩中納言という人の娘で、禁中に仕えたことがあり、下国して生まれたのが秀吉だという。あからさまな形で誰々天皇の落胤とはいっていないが、「王氏に非ずんば、争か、この俊傑を得んや」といっているあたり、皇胤説をにおわせた叙述となっている。
と解説する。
そう解釈するのは妥当だろうか?俺にはそうは思えない。
小和田氏の考えによると、大政所が禁中に仕えていたときに、天皇の手がつき秀吉を孕んだということになる。しかし「関白任官記」にはそんなことは一言も書いてない。もちろん書いてないから「におわせた」ということになるんだろうけれど、そうではないと俺は思う。
ここで言われているのは、秀吉という人物が幼少の頃から奇怪なことが多いのは、秀吉が「王氏」(天皇の子孫)だからではなかろうかということだ。それは母が天皇の子を孕んだという、一言も書いてないことから推理したという意味ではなくて、祖父が荻中納言という貴族であるという「事実(関白任官記における事実)」から推理して、萩中納言が皇族だったのではないかということを言っているのだと考えるべきだろう(追記あり)。
広い意味ではこれも「皇胤」かもしれないけれど、天皇の落胤という意味ではないはずだ。もし、秀吉が天皇の落胤だと(それが匂わせる程度のものであったとしても)主張していたのなら、もっとはっきりとしたそれについての言及が諸記録に残っていてもよさそうなものだ。
(追記1/26)
というか、本当に小和田氏の訳は正しいのだろうか?「如何様非王氏者争得此俊傑乎」は「如何様王氏に非ずんば、争か、この俊傑を得んや。」という意味なのか?
あと、「如何様王氏に非ずんば、争か、この俊傑を得んや。」で区切っているけれど、ここは「従孩子奇恠之事多之」で区切って、
如何様非王氏者争得此俊傑乎。往時右大将源朝臣頼朝。雖執天下権柄。其位不及大臣。又平朝臣清盛公。任太政大臣。是為王氏謂乎。最可比量。然殿下素性不肖。
と続くのではなかろうか?そしてそこには「殿下素性不肖」ってはっきり書いてある。俺は漢文にほとんど無知であるから釣られてしまったのかもしれない。色々考えると、王氏でない秀吉が、どうやって大臣になるのか思案して、藤原氏の猶子になったということを書いているようにも思えるのだが…
漢文に詳しい人ならわかると思うんだけど。
(つづく)