オモテを読まずにウラを読む(その2)

オモテを読まずにウラを読むの続き。


さて、俺がこのことに重大な関心を持っているのは、俺の趣味である日本史にもそういうケースがあると考えているから。


たとえば「豊臣秀吉落胤説」。秀吉が天皇落胤だと秀吉自身が宣伝していたというのは、多数の著名な歴史学者の本に書かれ事実だとされている。ところが、秀吉が落胤だと主張した史料は存在しない。存在するのは秀吉の母が宮中に仕えた後に故郷に帰って秀吉を産んだという話だけだ。


秀吉が自身を落胤だと主張した史料が存在しないのに、なぜ歴史学者が決め付けるのかというと、史料の「ウラ」を読んでいるからに違いない。確かに秀吉が天皇落胤だとする史料は存在しない。秀吉の母が天皇と性交渉を持ったという史料も存在しない。しかし、直接書かれていなくても、それを匂わせるようなことを書いているのだというのが歴史学者の思考なんだろう。そして、直接書かれていないことをもって、秀吉は落胤説を宣伝しなかったなどと言うのは、史料を鵜呑みにしてしまう「愚か者」だと考えているのだろう。


確かに史料のウラを読むこと(史料批判)は必要なことであるに違いない。しかし、それに捕われすぎると落とし穴にはまってしまう。


俺は秀吉は後胤説を主張してなどいないとほぼ確信している。


なぜなら秀吉後胤説の証拠とされる松永貞徳の『戴恩記』には「父なけれは氏姓なし」と秀吉が言ったと書かれているからだ。それこそ「天皇の息子だ」と明言しないにしても、匂わせようとするならば「抹消」すべき事柄であり、言わなくてもいいことをわざわざ言ったのだとしたら秀吉は余程の間抜けだということになる。


また、秀吉が後胤説を主張したのなら、それに対する反応があっても良さそうなものだ。落胤を主張するとはけしからんとか、逆に秀吉様は高貴な方だという提灯記事とかが。(秀吉が落胤だとした史料はあるにはあるけれど、それは後世の史料であって同時代のものではなく、今の歴史学者同様の思い込みだろう)。


しかし、秀吉は後胤説を主張したのだ。主張してないなどというのは史料を鵜呑みにして隠された真実を読み取ろうとしない愚か者だという信念を持つ「賢い人」には、こういことを言っても話は通じないのだろう。