オモテを読まずにウラを読む(その3)

ウラを読みすぎてオモテが見えなくなっている例をもう一つ。


織田信長の岐阜命名について。信長は美濃を制圧した後、それまで「井の口」と呼ばれていた地域を岐阜と改称した。これは周王朝の故事にあやかったものであるというのが通説で多くの本に書かれている。


ところが、実はこれは史料的根拠があるものではない。史料によれば、信長は岐阜と命名した後に、沢彦に岐阜にちなんだめでたいこと(祝語)はないかと聞いて、そこで沢彦が周の故事を伝えたという話であって順番が逆なのだ。


これがなぜ、周の故事にちなんで岐阜と命名したという話になってしまったのか謎だが、おそらくこれも「史料のウラ」を読んだ結果であろう。すなわち信長は岐阜時代に天下統一を目標に掲げていた。よって岐阜命名もそのためのものであろう。史料にはそうは書かれていないけれど、本当はそうに違いない…


という思考が働いたのではないかと思われる。


ところがここに新たな要素が加わる。信長以前に文人の間で「岐阜、岐阜陽、岐陽」と既に呼ばれていたという話だ。これにより信長命名説は揺らぐことになる、はずなのだが…


確かに信長命名説は揺らいだ。しかし、なぜか肝心の史料の再評価はなされていないようにみえる。すなわち「信長は周の故事にちなんで岐阜と命名した」という話はそのままで、それを否定する、あるいは岐阜という名は以前からあったが信長は周の故事にちなんでそれを採用したと両者の辻褄を合わせようとするといった形になっている。


しかし、史料には元々周の故事にちなんで命名したという話は存在しないのであるから、そのことを重視しなければならないはずだ。


それを重視すれば、信長が「井の口」を改名したいと望んで沢彦に命じたところ、沢彦は以前から文人の間で使われていた「岐阜」「岐陽」・「岐山」の三つの案を提出して、信長は人々が発音しやすいということから岐阜を選んだ。岐阜にちなんだめでたい話はないかと沢彦に聞いたところ、沢彦は周の故事を話した。(天下統一を望んでいた)信長はそれを聞いて喜んだ。という話になる。これでちっとも不自然なところはない。


それなのに、なぜか学者は史料をオモテから読むことをせずに、周の故事にちなんで命名したのだということにこだわり続けるのだ。全く不可解なことだけれど、これもおそらくウラを読むことに捕われすぎたせいだろう。


※ 信長が岐阜制圧時点で天下統一を望んでいたかは意見の分かれるところではある。仮に望んでいたとした場合、岐阜という地名を命名したのは、その意思が反映しているのではないかとつい考えてしまいがちだが、「周の故事」といっても天下統一だけがあるわけではないのであり、もし信長の望みが別のものだったら、それに合わせた「周の故事」を沢彦が語ればいいだけの話である。


※現に山口県周南市「岐山」という地名がある。これは「周の故事」にちなんでいるが、天下統一にちなんだ話ではない。
きさんのさと
(天下統一の野望のために命名したのではないし、誰もそう理解しなかったということだ。徳山藩外様大名毛利氏の支藩だから、幕府がそう理解したなら大変なことになる)


※ なお、これとは別に岐阜という名が「地名」として以前から存在したとする説もある。


(10/1 追記)
※ そもそも信長が周の故事にちなんで命名したというのなら、なぜ『政秀寺古記』は素直にそう書かないで歪曲して伝えているのだろうか?書くと「都合の悪いこと」だとは到底考えられない。いかなる理由によるものか納得のいく説明をしていただきたいものだ。


※ これだけ書いても理解しようとしない、理解したくない人には話が通じないだろう。