藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社現代新書)を図書館で借りて読んでたんだけれど、期限がきたので返却した。俺が読んだのは、秀吉が信長に仕えはじめた頃のところまでで、それ以降は読んでない。
で、いくつか疑問点を。おそらく藤田氏が力を入れているのは、この部分じゃなくて「本能寺の変」とか「豊臣平和令」の部分なんだろうけれど、書物として出されいる以上はそういうのは考慮する必要はない。あと発売されたのは2007年9月だから3年以上前の本だけれど、そんなの関係ない。あと俺はいつも長文だけれど別に藤田氏に怨みがあるわけじゃなくて、色々と現代の豊臣秀吉に関する定説の問題点を浮き彫りにしたいだけ。
1.秀吉の誕生日
天文五年(一五三六)元日に生まれたというのは確かに怪しい。しかし、では天文六年二月六日が正しいかといえば、これも確かなことはいえない。そもそも天文五年説が怪しいのは申年元旦に生まれたというのが出来すぎた話だからだ。天文六年二月六日は特に何もなさそうな日に見えるが、それはそう見えるだけなのかもしれない。そもそも秀吉自身が誕生日を知っていたかも疑わなければならない。現状では正しい誕生日などわかりようがない。したがって「天文六年二月六日が秀吉公認の誕生日」とすればいい話。
2、秀吉皇胤説
史料から秀吉が自身を皇胤と主張したとは読み取れない。もし主張していたのなら反応が記録された史料があっても良さそうなものだ。秀吉は「母が内裏に仕えていたときに霊夢を見て懐妊した(もちろん史実ではないだろうけれど)」と言っているだけだろう。この「定説」は再検証する必要がある。
3、日輪受胎説
俺の認識では「日輪懐胎説」は海外向けの文書に記されているだけだと思う。後になって国内の伝記に採用されたものではないか?秀吉は出生伝説を変更したのではなくて、海外向けにのみ、外国人にも理解しやすいように(そして進出に有利なように)改竄したのではなかろうか(おはらい箱とか訳すの困難だろうし)。
今度は、生母なかが懐に太陽が入って受胎する夢をみて、日吉山王権現の申し子として秀吉を産んだとする創作だった。天文五年の「元日」に生まれたという話も、この説をより効果的に演出するためにつくられたものだ。
とあるけれど、秀吉が「日吉山王権現の申し子」だと主張した証拠はないはず。天文五年元日に生まれたと秀吉が主張した証拠もないはず(この部分主語が無いけれど)。
4、日吉丸
これも主語が無い。創作したのは誰?
5、あだ名
家臣にあだ名をつけることが得意な主君・信長は、明智光秀をその頭の形から「金柑頭」と名づけ、秀吉のことは「禿鼠」と呼んだが、「猿」と呼んだ確証はないのである。
「猿」についてはその通りだが、信長が光秀を「金柑頭」と名づけた確証もない。
6、豊国大明神
初耳。根拠不明。
7、針の行商
秀吉が針売りをしたというのは『太閤素性記』に記されていること。伝説的要素が濃厚で信用できない。
8、秀吉のもつ特殊な情報収集能力の由来
由来以前に秀吉が特殊な情報収集能力を持っていたという根拠は何だろう?
9、木下氏
寧の母親が木下家の出身だったことから、その名字をもらって「木下藤吉郎秀吉」と名乗ったのだった。
何度も指摘してきたことだが、ここでも根拠が示されないまま断定的に書かれている。これは本当に深刻な問題だ。
10、父親の存在
関白に任官して「皇胤説」を主張したこと、天下統一後は「日輪受胎説」を流布させたことがそれである。つまり「秀吉神話」にとって、父親の存在は邪魔なのである。
「日輪受胎説」であろうと父を消す必要はない。類話ではそのようになっている。父の存在が希薄なのは他の理由があるはずだ。
11、『武功夜話』
『武功夜話』が偽書であろうとなかろうと現状でそれを参考史料にするのは危険(研究するのは勝手にすればいいけれど)。
あと印象で言うけれど、藤田達生氏は大山誠一氏と文章の雰囲気が似ていると思う。