遠い昔に没した人物が時を経て忌日の翌日に輪廻転生したという考え方が戦国時代に少なくとも一件はあった。『日蓮聖人註画讃』である。
この考え方がいつ頃からあったのか?日蓮以外にも適用された人物がいるのか?俺は無知だから全く知らない。大昔からありふれた考え方で同様の話は山ほどあるのかもしれない。逆に戦国時代になって初めて登場した考え方かもしれない。あるいはそれ以前からあるにはあったが非常に珍しい例なのかもしれないし、実はこれが適用されているのは日蓮だけという可能性だってある。そこのところがわからない。
わからないから間違ってるかもしれないが、俺の直観では、この考え方は世界中の伝承を調べれば類例が見つかるかもしれないけれども、『日蓮聖人註画讃』の考え方はそれらとは無関係に戦国時代に独自に発生したか、あるいは何らかの古典に載っていた考え方を「発見」して適用したもので、日本社会で伝統的に受け継がれてきたものではないのではないかと思う。
いや繰り返すが間違ってるかもしれないけど、それを前提にして考察してみる。
『日蓮聖人註画讃』の撰者は、室町時代末期から戦国時代初期の六条門流の僧の日澄(1441‐1510)。現存本では,1536年(天文5)勧発師安立院日政,画工窪田統泰による京都本圀(ほんこく)寺本が最古。
⇒日蓮聖人註画讃(にちれんしょうにんちゅうがさん)とは - コトバンク
⇒日澄 (曖昧さ回避) - Wikipedia
天文5年といえば豊臣秀吉が生まれたとされる年(ただし学界の定説では天文6年生)。すなわち秀吉が生まれた頃にはこの考えが既に存在した。どれだけ世間に浸透していたのかはわからないけれど。
秀吉が関白に任官する天正13年(1585)には、この「考え方」がある程度普及していて、秀吉はこれを利用して自らの前世を聖徳太子=豊聡耳命(トヨトミミノミコト)と暗示した可能性があると俺は思う。
だが、さらにいえば戦国時代にあった「長い年月を経過しても忌日の翌日に輪廻転生する」という考え方を利用した間接的なものというよりも、もっと直接的に、秀吉は「日蓮の伝承」にインスパイアされて自らの伝記を創作した可能性があるように思う。
というのも日蓮は幼名を「善日麿」といい「ぜんにちまろ」と読むそうだが、「善」は「よし」とも読めるわけで、「よしひまろ」と読めば、秀吉の幼名とされる「日吉丸(ひよしまる)」と類似しているからだ。
日吉丸については「丸」は上流階級が使用するもので庶民の出の秀吉の幼名としてはおかしいので本当は「日吉」だとか、あるいはまったくの創作だとか、さらには『太閤記』の小瀬甫庵の創作だとか諸説あり、秀吉の同時代史料に「日吉丸」「日吉」は見当たらないのではあるが、この類似は大いに気になるところである。
※ ただし『日蓮聖人註画讃』に「善日麿」という名は見えず「薬王丸」とあるようだ。したがって『日蓮聖人註画讃』からというより「日蓮の伝承」からではないかと思う。
※ なお「善日麿」も日蓮の本当の幼名かは不明。
※ 慈恵大師良源の幼名が「日吉丸」だという説があり、秀吉伝説と酷似していることは前に書いた。
⇒もう一人の「日吉丸」(その2)
(つづく)