「日蓮は釈迦の生まれ変わりという説について」のつづき
唐突ではあるが日蓮の誕生日から秀吉の誕生日の話に移る。
秀吉の誕生日については多くの本で触れられているが、ほぼ桑田忠親氏の説を踏襲したものである。江戸時代成立の『太閤素性記』に天文5年(1536)「正月朔日」と記載され昔は「1月1日」説が採用されていたが、桑田氏が異論を唱えた。大村由己の『関白任官記』に「誕生の年月を年ふるに、丁酉二月六日吉辰なり」とあり、それによると天文6年2月6日となる。また伊藤秀盛の天正18年12月吉日付願文によると「関白様 酉之御年 御年五十四歳」とあり、天文6年生まれだということが裏付けられる。これにより現在では天文6年2月6日説が広く受け入れられ定説となっていると思われる。
『太閤素性記』の記述をより詳細に書けば秀吉は1月1日の日の出と同時に生まれたとあり伝説めいている。しかも同書によれば秀吉の幼名は「猿」であり、申年天文5年申年に生まれるというのは出来すぎた話であり疑わしい。
一方、(天文6年)2月6日については、一見すると特に何も意味がないようみえる。したがってこれは創作されたものではなくて、本当の誕生日なのだと考えるのは、自然なのかもしれない。
だが、本当にこの日には意味がないのだろうか?
そもそも秀吉は自身の誕生日を知っていたのだろうか?日本には誕生日を祝う習慣がなかったという話があるけれども必ずしもそうではない。とはいえ一般に浸透していたかといえば、そうではないだろうとも思う(よく知らないんだけれども)。
そんなわけで俺は以前から2月6日説も疑っていた。そして思い浮かんだのが聖徳太子との関係である。
聖徳太子が没したのは『日本書紀』によれば推古天皇29年(621)2月5日なのである。
すなわち豊臣(トヨトミ)秀吉は聖徳太子=豊聡耳命(トヨトミミノミコト)の忌日の翌日に生まれたのだ。
これは秀吉が聖徳太子の生まれ変わりだということを暗示しているのではないか?
ということで以前にも記事を書いた。
⇒豊臣秀吉の誕生日(その2)
ただ、ここでネックだと思ったのは、忌日の翌日とはいえ聖徳太子が没したのは秀吉の生まれる900年以上も前のことだということ。没した日の翌日なら魂が抜けて新しい肉体に宿る期間と理解することが可能だろうが、長い年月が経過した後の翌日に意味があるのか?ということだった。
ところがまさに戦国時代にそのような考えが実際にあったのである。それが日蓮(2月16日生まれ)が釈迦(2月15日入滅)の生まれ変わりという考えである。
(つづく)
※なお2月6日生まれとする『関白任官記』は秀吉が豊臣姓を賜る前年の天正13年に成立