豊臣秀吉の誕生日について(その3)

次に日蓮と秀吉の出自について。

日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。

日蓮 - Wikipedia

日蓮自身は自身の出自をこう述べている。「施陀羅」とは殺生を生業とするインドの被差別民のこと(佐藤弘夫日蓮』、以下もほぼこれを参照。)だが、ウィキペディアの説明によると

旃陀羅(せんだら)とは、日本の中世の一時期、被差別民にたいする呼称として使われていた語である。

旃陀羅 - Wikipedia
とあり、日本でも被差別民に対して使われていたらしい。ただし、漁師の子だから「施陀羅」と称したということらしく被差別民だったということではないとされているようだ。日蓮が教育のために幼少期に寺に入っていることなどから、網元クラスの出身、あるいは「権頭」と呼ばれた有力漁民の子だというのが定説だそうだ。これが没後の伝承によれば、日蓮の祖父は貫名重実という武士で、源平の内乱で安房に流され、子の重忠が土地の娘の梅菊と結婚して生まれたのが日蓮だという。先の『日蓮聖人註画讃』では聖武天皇の末裔だという。



一方、秀吉の出自は不明だが、

フロイス日本史』では「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」、『日本教会史』には、秀吉は「木こり」出身と書かれている。

豊臣秀吉 - Wikipedia


これは研究者には、あまり重視されていない模様だが、秀吉が自身の出自を日蓮にインスパイアされて創作していた場合、日蓮の出自が海の民であるのに対応して、山の民である「木こり」と称した可能性があるように思われる。もちろん秀吉自身が主張していたからといって本当に「木こり」だったとは限らないけれども、個人的には秀吉が木材に関連した仕事をしていた可能性はあると思う。
半場(橋場)村と材木町


※ 松永貞徳の『戴恩記』で秀吉が近衛前久の猶子となった時に自身の出自を「草かり」としている。これについては丸太淳一という人が、藤原氏の祖の中臣鎌足が若い時に草刈りをしていたという伝説を前提としたもので、藤原氏のご先祖様もそうだったではないかということを暗に示しているという鋭い指摘をしており、おそらくその通りであろう。もちろんこれも本当に「草刈り」を生業としてたわけではないだろう。なお、日蓮が自身を「賎民が子」としているのに対し、秀吉がそう述べたという話は聞いたことがないが、秀吉被差別民説を主張する人もいる。


また、日蓮が教育のために幼少期に寺に入ったということは既に書いたが、秀吉も『太閤記』等によれば寺に入っている。


秀吉の母方の祖父は萩中納言といい、尾張に流さ村の娘と結婚して出来たのが秀吉の母であるという。これも日蓮伝説と少し似ている。この手の話は良くあるけれども。


また、日蓮伝説では日蓮の母は日輪が胎内に入る夢を見て懐妊したという。秀吉の母も霊夢を見たという。これもありふれた話だが類似している。



このように、日蓮伝説と秀吉伝説には共通点が多い。貴人の子孫だとか霊夢を見たというような話だけなら、似た話はいくらでもあるけれどもそれ以上に似ていると思う。


そう考えると秀吉が2月6日に出生したというのも、日蓮が釈迦の忌日の翌日の2月16日に出生したので生まれ変わりだという秀吉と同時代に存在した考え方に影響を受けている可能性は高いと思うのである。