羽柴=橋場説について(その1)

ミニミニ出版 モタモタ実験工房」というブログを運営している人からコメントをいただいた。ブログを見ると桃山堂という出版社を運営されている方だそうだ。桃山堂のページを見ると『豊臣女系図』『黒田官兵衛目薬伝説』『豊臣秀吉系図学』『火山と日本の神話』という本が出版されている。このうち『黒田官兵衛目薬伝説』については前に記事を書いたことがある。官兵衛の足萎え伝説および備前福岡との関係、そして目薬伝説についてはかねてより注目していたので興味があったのだけれども、ちょうどその頃、黒田氏と近江佐々木氏は関係ない、備前福岡とも関係ないという話を知ったので急速に関心は薄れてしまった。無論史実でなくても伝説としての意味がある場合はあるのだけれども、この場合は経緯を考えるとそういうものでもないと思われ。ただし。黒田氏の広峯神社と目薬伝説の関係については十分考察する価値があるし、黒田氏抜きにしても金属民についての民俗学的な話は読む価値があるだろう。また『豊臣秀吉系図学』は図書館でちょっと見たことがあるけれど、たしか木下という名字が妻の実家のものだという小和田哲男氏などが著書に書き、一般にかなり広まってる説を否定していたように記憶している。俺もこれには疑問を持っていたので、やっぱり疑問視する人がいるんだと思った(追記8/21 勘違い。今日図書館で確認したら別の本だった。でもこっちにも書いてあった)。あと『火山と日本の神話』は読んでないけど保立道久氏のブログで知ってた。日本神話には大いに興味あるけれども正直なところ保立氏のブログ記事を見てもこじつけに思える。とはいえこの出版社は俺が興味を持つ分野とかなり重なっているように思う。



さて、「羽柴=橋場」説について。
江戸のやきもの産地は浅草の橋場(ハシバ)、秀吉の名字は羽柴(ハシバ)? - ミニミニ出版 モタモタ実験工房


俺の「羽柴=橋場」説はどこかで知ったというわけではなく、全く俺の個人的な思いつき。ただしBBSに書き込んだ時点では『図解雑学 織田信長』(西ヶ谷恭弘 2002)に

信長の岐阜入城後、秀吉は墨俣渡を守る墨俣城代的な地位を与えられたのであろう。渡場は「橋場」とも呼ばれ、この渡河点である橋場を預けられたから、ハシバと名乗ったのではなかろうか。

と書いてあるのを知っていた。これを読んだとき似たことを考えている学者がいるんだなと思った。なお「なかろうか」と書いているので西ヶ谷がそう考えたということだろう。それ以前にそういう考えがあったかは不明。当時ネット検索した限りでは見当たらなかったと記憶している。


俺が思いついた理由は、まず「御器所」という地名。「御器」=「土器」=「土師(ハジ)」を連想させる。もっとも当時は小和田哲男氏が『豊臣秀吉』(中公新書)の中で、この地名に注目して

彼女が木地師集団となんらかのつながりをもっていたことを想定することはまちがっていないのではなかろうか。

とあり、「木地師」と書いているから多少不安はあったのだけど、地名の由来が熱田神宮に土器を納めていたからというのは後で知った。


次に東京都台東区の橋場について。ここに石浜神社(朝日神明宮)があることは前々から知っていた(正しくは現住所荒川区南千住だけど)。で、羽柴について考えて、(ハシバに意味があるとしたら直ぐに思いつく)「橋場」のことではないかと考えたとき、石浜神社のことが思い浮かんだ。なぜなら秀吉の妻の母は「朝日」といい、妹も「朝日」という。清州には「朝日神社」があった(後に名古屋に移転)。「羽柴秀吉と朝日」「橋場と朝日」この二つの関係が気になった。


あとは、どこで見たのか忘れてしまったけれど同時代の文書に秀吉のことを「橋場」と書いたものがあったように思う。もっともこれは誤字当て字の類かもしれないけど。


羽柴は「丹羽」と「柴田」から取ったものと言われているけれども、まず「ハシバ」が先にあり、そこにどの漢字を充てるのかというときに「丹羽」と「柴田」から一字ずつ貰ったとすれば「羽柴=橋場」と「丹羽+柴田」は矛盾しない。


で、「土師場」と「橋場」が繋がるのかといえば、何となく繋がるようでもあり繋がらないようでもあり、ちょっとわからない。そこが上の記事によると、「浅草の橋場は、江戸では最大のやきもの産地だった」そうで、これは非常に重要な指摘だと思う。また土師真中知(はじの・まつち)については知っていたけれども橋場とは結びつけて考えていなかった。待乳山(まつちやま)聖天も言われてみればその通り。


「羽柴」と「橋場」と「土師」につながりがある可能性は非常に高いと思う。


ところで俺はさらに重要なことに気づいてしまった。


(つづく)