『太閤素性記』の類話(その10)

『太閤素性記』の類話(その9)の続き。


今日中に『太閤素性記』の検証は終わりにしたいと思ってる。


『太閤素性記』の豊臣秀吉が家を出て織田信長に仕える話は信用できないというのが俺の結論。それでは、それ以外の記事は信用できるのか。


結局のところ、それらの記事も『太閤素性記』は信用できるという先入観から来ていると考えられるので、全て再検討する必要があると思う。


『太閤素性記』では秀吉の父は「弥右衛門」で、義父が「竹阿弥」ということになっている。母と竹阿弥の間にできたのが、羽柴秀長(小竹)と朝日姫だ。


しかし、小瀬甫庵の『太閤記』では秀吉は筑阿弥(竹阿弥ではない)の子となっている。歴史家はおおむね『太閤素性記』の記事を採用する。けれども果してそれでいいのだろうか?俺は見直す必要があると思う。


だからといって『太閤記』の記事が正しいとは限らない。しかし『太閤素性記』が正しいとして『太閤記』の記事を見るのと、それを考慮しないで見るのとでは見方が違ってくるだろう。


俺は、秀吉が弥右衛門(弥助)の子でも、竹阿弥(筑阿弥)の子でも無い可能性を考えている。そもそも彼等が実在したのかも疑ってみる必要がある(もちろん皇胤だと言いたいのではないが)。


甫庵『太閤記』に弥右衛門の存在が書かれてないのはなぜなのか?省略されたのか?弥右衛門は実在しないのか?そういうことを考えてみる必要があるだろう。


また、「小竹」は羽柴秀長の幼名だというが、本当だろうか?『太閤素性記』には、

秀吉を竹阿弥の子にて幼名を小竹と云々

とあり、これを信じられないとし、秀長が竹阿弥の子だから小竹というという話を採用する。


だが、「小竹」が秀吉のことだとする史料が存在する。『祖父物語(朝日物語)』がそれで

太閤御親父は尾州廻間村の生れ。竹阿弥と申て、信長公の同朋なり。太閤は申の年六月十五日清洲のカラ戸と申所にて出生し玉ふ。御名を小竹とぞ申しける。

とある。『祖父物語』は著者は清洲朝日村の人で祖父から話を聞いたということになっている。それが本当なら『太閤素性記』と比較して劣るわけではない(もちろん聞いた話だから真実だとは限らないけれど)。


以上、現在の歴史家の『太閤素性記』偏重には大いに問題があり、見直す必要が大有りだという話。


※なお、秀吉の実父が死んで義父がいて、異父兄弟がいるという話のネタ元として『太閤素性記』に採用された「灰坊伝説」とは異なるバージョンの継子いじめ型の「灰坊伝説」が存在していたのかもしれないとも思う。