服部英雄氏の秀吉論について(その1)

話題の『河原ノ者・非人・秀吉』(服部英雄 山川出版社)やっと見ることができた。

河原ノ者・非人・秀吉

河原ノ者・非人・秀吉


注目されているのは豊臣秀頼が秀吉の実子ではないという説だが、秀吉の出自についても論じられている。正直なところ服部英雄という学者のことを俺はよく知らないのだが、先の『政基公旅引付』について調べている時にも好意的に紹介されているものを見かけたので学者としての評価は高いのだろう。ただし秀頼非実子説については批判も結構目にした(まあこれは斬新な説なんだから当然だろう)。


俺は独自に秀頼が秀吉の実子でない可能性は十分にあると思っているので、学者がそれを主張することは画期的なことであり、中身については同意できない部分があるかもしれないが、取り上げたこと自体は評価できるものだと思っている。しかし、この本を紹介した記事を読むと、どうにも不安な部分があることは否めなかった。それは前に書いた。
秀頼非実子説と六本指の秀吉


で、今実際に本を読み始めたところだが、興味深い点もあるものの突っ込みどころもある。といっても、それが既存の学者の定説に反するとかいうことではなくて、「俺の考えと大いに異なる」ということだということはあらかじめ断っておく。


俺は素人であるからして、そんなド素人の考えと違っているから何だっていうんだと考える人はスルーしていただければ幸いに存じます。ただし素人の無知故に大事な点を見落としているかもしれないということであって突飛なことを書こうというわけではない。それを指摘する親切な方の批判は大歓迎。



まずは秀吉の出生地について。


秀吉は尾張の中村で生まれたというのが一般的(服部氏によれば「定説」)である。しかし『祖父物語』という史料には「秀吉は清須ミツノガウ戸の生まれ」とあるという(『史籍集覧』『清洲町史』)。
※ なお群書類従ではそこが「清須ノカラ戸」となっている。服部氏は「ガウ戸をカラトとする本もある」と書いているが群書類従のことではないと思われ、その本が何かはわからない。


史料にそう書いてあるのだから、この異説の方が正しい可能性もなくはない。それは問題ない。問題は、

 秀吉が中村の生まれであれば、農村で生まれた。たぶん「百姓」の出自となるけれど、もし清須・御園生まれならば都市民で、出自は農民ではなく、職人ないし商人の可能性が高い。

というところ。


秀吉が清須生まれなら農民ではない可能性は高いというのは良い。しかし中村生まれなら「農民」というのは問題がある。



果たして中村は農村だったのか?


そこのところが無知なのでわからない。服部氏は当然のように農村と決め付けているけれど、俺にはそこがわからない。元和元年の免状に「高千六百弐拾四石三升三合 中村」とあるけれど米以外も「石」に換算するという話を聞いたことがあるので、それが農産物だとは限らないようにも思う。


『祖父物語』の描写によると確かに中村は農村であるようにも思われる。ただし『祖父物語』の世界では秀吉は中村生まれではない。『祖父物語』を使用して中村生まれなら出自は農民とするのは難点があり、別の史料で確認したいところ。


また、もし中村が農村だったとしても、村人全員が農民であったとは考えられない。非農業民がいても少しもおかしなことではない。


ちなみに学者は軽視するけれど『絵本太閤記』では秀吉の父は弥助昌吉といい織田信秀足軽だったが負傷の後に剃髪して筑阿弥と号したとする。何で生計を立てていたかは書いてない。祖父は弥助昌盛といい延暦寺の寺僧であったが還俗して江州浅井郡で農耕をしていたが故あって中村に移住したという。これも中村では何で生計を立てていたのかは書いてない。母は持萩中納言保廉という公卿と猟師治太夫の娘の間に生まれたというのだから農民ではない。母の従弟は源左衛門といい清須で商人をしていたというからこれも農民ではない。すなわち秀吉の親族に明白に農民だとわかる者は一人もいない。


また『真書太閤記』では秀吉の父は中村弥助昌吉といい織田信秀足軽だったが負傷して後は信秀より賜わった金銀で暮らしていたが、何もしないで生きてるのは虫同然だというので傘張を渡世としたという。後に落髪して竹阿弥と称す。祖父は弥右衛門高吉というが何で生計を立てていたのか不明。曽祖父は延暦寺の僧であったが還俗して浅井郡長野村で農耕をしていたが、村の娘と契ったことで村の若者達に恨まれて所縁の者がいる中村に移り「手跡の指南」で生計を立て中村弥助国吉と改名したという。母は持萩中納言保廉と五器所村の猟師治太夫の娘の間に生まれ孤児となったので中村の叔父五郎助に養われた。五郎助は鍛冶を生業として傍ら農業をしていた。また母の従弟に源右衛門という清須の明神町に住んでいる者がいて秀吉の奉公の世話をした。こちらも秀吉の親族に純然たる農民は一人もいない。


また『太閤素性記』では秀吉の父は中々村の木下弥右衛門といい織田信秀鉄炮足軽だったが負傷して「百姓」となったとあるが「農民」とは書いていない。義父は中々村の出自で竹阿弥といい信秀家の同朋だったが病気で故郷に帰り秀吉の母と夫婦になる。やはり農民だとする記述は一切ない。


小瀬甫庵の『太閤記』には「父は尾張国愛智郡中村之住人、筑阿弥とぞ申しける」とあるのみで農民だとする記述は一切ない。



これらの史料が信用できるかどうかはともかく、秀吉が中村(中々村)の出生だとする史料にも秀吉の親族が農民であるという記述は一切ないのである。