秀吉皇胤説を疑え(その4)の続き。
次に江戸時代に書かれた『塩尻』。近代デジタルライブラリーから。
秀吉(始は高吉)尾州萱津横笛山光明寺支院福阿弥子也。伝云福好医術能治眼疾。一旦勅治御疾。上賞之将使福有嗣子伝医術乃賜官女。於是還俗移居中村郷。称弥助云々。或曰官女已有妊後賜之。秀吉幼時学筆墨。処即萱津光明寺也。門前三島祠辺有榎樹。伝曰秀吉遊此樹下。長後不忘而以木下為称号。今榎樹猶存(右光明寺所伝也)。
豊臣秀吉は始め高吉といい、尾張萱津の横笛山光明寺支院の福阿弥の子である。伝によると福阿弥は医術を好み眼病をよく直したという。一度勅があって眼疾を直し、お上はこれを賞して福阿弥に使いを遣わし、嗣子に医術を伝えるべしとして官女を賜った。これにより還俗して中村郷に居を移し弥助と称した云々。ある説によると官女は懐妊した後にこれを賜ったという。秀吉は幼時に筆墨を学んだが、その場所は光明寺である。門前の三島祠の辺りに榎がある。伝によると秀吉はこの木の下で遊び、後に長く忘れず、そのために木下と称した。今もなお榎は存在する。これは光明寺の所伝である。
ということ。この部分、小和田哲男『豊臣秀吉』(中公新書)では、
尾張萱津の光明寺の支流に福阿弥というものがおり、この福阿弥は眼病をなおす名医として知られ、あるとき天皇の眼病をなおし、その褒美として官女一人を与えられたという。福阿弥は尾張中村に彼女をともなって移り住み、名を弥助と変え、ほどなく男の子が生まれた。これが秀吉だといい、官女は褒美として下されたとき、すでに妊娠していたので、天皇の落胤だというわけである。
となっている。
まず、一見して思うのは「ほどなく男の子が生まれた」と『塩尻』に書いてないことが解説には書いてあるということだ。そして『塩尻』には二つの説が載っているのを一つにまとめてしまっているということだ。すなわち、秀吉は福阿弥の子だという説と、官女はすでに妊娠していたという説だ。
こういうのやめてほしい。直接史料を見ていない人に誤解を与える。
さて、『塩尻』によると、一つ目の説では秀吉は福阿弥(弥助)と官女の子であり、すなわちこれは皇胤説ではない。二つ目の説では官女は既に妊娠していたということになるが、本当の父が誰であるかは書いていない。さて、官女が妊娠していたら天皇が孕ましたと言うことができるのであろうか?明言していない以上、皇胤である可能性はあるものの、そうだと断定できるものではない。
ところで、これは「関白任官記」や『戴恩記』に載る秀吉出生伝説が発展したものであろうか?一部についてはそうかもしれない。『戴恩記』では秀吉の母は内裏の「下女」であった。一方こちらは「官女」であるけれど、「下女」が「官女」に変化した可能性はある。ただし、その場合に官女が妊娠していたというのは、霊夢を見て妊娠したということになり、すなわち処女懐胎であり、俺の考えでは皇胤だということにはならないのである。
※なお、この『塩尻』の説はあまり聞かない話だけれど、これを荒唐無稽の説として一笑に付して良いものだろうかという疑問がある。というのは、ここには「関白任官記」や『戴恩記』には無い情報があるからだ。すなわち秀吉と萱津光明寺の関係。そして父が光明寺の僧であり、還俗して弥助と称したということだ。ここはもっと調べてみる必要があるだろう。