秀吉皇胤説を疑え (その4)

秀吉皇胤説を疑え(その3)の続き。


ところで、ここで不審なのが「関白任官記」であろうと『戴恩記』であろうと、豊臣秀吉は母の最初の子としか思えないこと。


ところが秀吉には姉がいるはずだ。
日秀 - Wikipedia


『戴恩記』に「吾々」とあるので「もしかして双子設定?」とも思ったけれど、「関白任官記」には「一子」とあるからそうでもなさそう(「吾々」の意味が俺にはよくわからないけど、それは俺が無知なせいなんだろう)。


秀吉の「姉」瑞龍院日秀の夫は三好吉房で、三好康長の養子なのだから、当時の人がその存在を知らないはずがない。
三好吉房 - Wikipedia


それなのに、まるで姉がいなかったかのような秀吉の主張は不可解だ。これをどう考えればいいのだろうか?


可能性としては、
1、秀吉出生伝説の必要から存在を無視された(ただし姉が実在することは伝説が嘘であることを立証してしまう)
2、日秀は姉ではなくて妹(たしかそういう説もあったはず)
3、諸伝説とは異なり実は日秀は義父の連れ子で秀吉と血の繋がらない姉(または妹)
などがあるだろう。


俺は日秀のことについてまだ調査不足なんで、疑問だということだけを書いておく。


(つづく)