豊臣秀吉と前例主義

前例主義といえば日本の朝廷も前例主義で有名だ。


羽柴秀吉の出自については色々な説があるけれど、とにかく素性がわからないということだけは確かだ。その秀吉が関白・太政大臣になるというのは前例の無いことだ。そこで秀吉は近衛前久の猶子となり藤原氏になった上で関白に就任した。そして「豊臣」という新しい姓を下賜されて太政大臣になった。


松永貞徳の『戴恩記』より

ある時秀吉公いつも御參内の時。御裝束めしかへらるゝ御中やと施藥院にて曰。我尾州の民間より出たれは。草かるすへは知たれとも。筆とる事はえしらす。もとより歌連歌の道には。なをとをしといへとも。不慮に雲上の交をなす。但わか母わかき時。内裏のみつし所の下女たりしか。ゆくりかに玉體にちかつき奉りし事あり。そのよの夢にいく千萬のおはらひ箱。伊せより播磨をさして。すき間もなく天上をとひ行。又ちはやふる藭のみてくらてにとりてと云。御夢想を感して。われを懐胎しぬ。

俺はこれを「皇胤説」だと考えていないということは何度も書いた。


ところで、ここに「草かるすへは知たれとも」とある。これを見て秀吉が昔は草刈をしていたと素直に受け取る人もいるけれど、ここに重要な意味が含まれていることを指摘したのが『秀吉の謎』(学習研究社 丸太淳一)だ。

実はこの時代、〈藤原鎌足は草刈りの子である〉という伝承が、とくに一般庶民のあいだに広く流布していたのである。

鎌足はその草刈鎌で蘇我入鹿の首を斬り落としたという。また鎌を埋めたのが今はお洒落スポットの鎌倉山だともいう。


なお、『戴恩記』によると、近衛前久九条稙通が論争して、前久は近衛家には入鹿の首を斬りおとした鎌があるという。一方、九条稙通はその鎌は鎌倉山に埋めたはずで、鎌が二つあるわけがない、頼朝が朝敵を従えたのもその鎌の威のおかげだと反論している。だから、この伝説は庶民の間だけではなくて藤原氏も認める伝説だったと考えていいだろう。


ここで秀吉が「草かるすへは知たれとも」と言っているのは、つまり、藤原氏の祖の鎌足も草刈をしていたという「前例」を述べているのだと考えられる。


で、九条稙通九条家が氏の長者であり、近衛前久が秀吉を勝手に猶子にして藤原氏にしたのはけしからんと文句を言っているわけなんだけれど、そこで秀吉は、

秀吉公いやうやさやうにむつかしき。藤原氏のつる葉ならんよりは。たゝあたらしく。いまゝてなき氏になり侍らんとのたまひけれは。菊亭のおとゝ。具に氏姓録を見給ひ。はしめて豐氏にさためさせ給ふ

と新たに豊臣姓になったのであった。


ただし、『戴恩記』によると、九条稙通はこれについて、必ず春日大明神の罰があるだろうと言っていたところ、秀次が謀反の時に近衛前久菊亭晴季が流刑になって、予言が当ったと人皆驚いたとある。