九条稙通

九条稙通 - 我が九条−麗しの国日本

このエピソードの出典は松永貞徳の『戴恩記』ですね。「長頭丸」は貞徳の別名。

又玖山公御若年のころは。天下亂かはしくて。公家の御知行もたえ〰なりしかは。都の御住居なりかたきにより。或は和泉の堺。或は九州に俳徊し給。聟君の十川殿を見はなたしと思召。武勇を心かけ給ふ。御機嫌よき時は。色々の昔を語りおはせし。有時仰られしは。何事なりとも思ひたつほとなれは。半にしては置す。其極めに至らん事を肝要とせしか。われ飯縄の法を行しに。成就したりと覺しは。いつくにても寢たる所の屋の上に。夜半時分に鳶來りて鳴。又ありかせ給ふさきには。辻風おこりしと也。又勇猛なる御人にて。鬼藭のことく世にをちおのゝく。信長公にいつれの公家門跡もこひへつらひ給ひしに。此玖山公は。立なからさしむかひ。上總殿か入洛めてたしとの給て歸り給へは。信長公機嫌あしくて。九條殿はわれに禮をいはせに來られしと御腹立有しと也。たとひ一命を失ふとも。公家の行跡をみたり。御家のはちを殘すましきとおほしめす心なるへし。

(『続群書類従』だったと思う…)


なお、同時代人の近衛前久も剣の達人だったと言われている。当時の貴族は一般にイメージされているような柔な存在ではないらしく、下級貴族などには戦に参加して戦死する者もいた。ということを何かの本で見た記憶がある。


ちなみに信長上洛のときに、扇子二本を献上して「二本(日本)手に入る今日のよろこび」と詠んだといわれるのは貞徳の師匠である紹巴。「甫庵信長記」に書いてあることだから本当かどうか怪しいけれど。